なおえもん
まいど、なおえもんやで
坂井泉水(さかい いずみ)さんは音楽グループ「ZARD」のボーカリストとして知られています。
彼女は1991年にデビューし、1990年代~2000年代にかけて日本の音楽シーンで非常に人気を博しました。
彼女の歌声は感傷的であり、力強くもあり、多くの人々に愛されました。 彼女が「負けないで」や「揺れる想い」をリリースし、大ヒットを叩き出していた頃、私は思春期、真っ盛りの中学生でした。
私にとってもZARDは思い出深く、感慨深いアーティストです。
もくじ
坂井泉水の生い立ちとデビューまでの経歴
坂井泉水の幼少期

坂井泉水の幼少期
本名は蒲池 幸子(かまち さちこ)で、幼い頃から歌うことが大好きでした。
彼女は1973年(昭和48年)4月、秦野市立西小学校に入学しました。
中学入学
坂井泉水さんは1979年(昭和54年)3月に小学校を卒業し、同年4月に秦野市立西中学校に入学しました。
中学時代の坂井泉水

中学時代の坂井泉水
高校入学
坂井泉水さんは1982年(昭和57年)3月に中学校を卒業した後、同年4月には神奈川県立伊志田高等学校に入学しました。高校時代は硬式テニス部に所属し、部活を引退した後は学生バンドのボーカルを担当しようとしましたが、どのバンドにも空きがなく実現しませんでした。
大学から社会人へ、そしてスカウト
1985年(昭和60年、当時18歳)3月、坂井泉水さんは伊志田高等学校を卒業し、同年4月に松蔭女子短期大学(現松蔭大学)に入学します。彼女は1987年(昭和62年、当時20歳)3月に短大を卒業し、不動産会社である第一不動産の総務部でOLとして2年間勤務していましたが、ある日スカウトを受け退職を決意します。
芸能活動の開始とデビュー決定
「いつしか歌手になりたい」という夢を持っていた坂井泉水さん。彼女は1989年(昭和64年=平成元年、当時22歳)に芸能事務所であるスターダストプロモーションに所属し、本名の「蒲池幸子(かまち さちこ)」としてモデルやレースクイーンなどのタレント活動を始めました。

坂井泉水のデビュー前
その時の様子をご覧ください。 この当時、本名の「蒲池幸子(かまち さちこ)」を名乗っており、喋り方も、喋り声も、歌声も、ZARDの坂井泉水である事がハッキリと確認できます。
彼女は当初から透き通った美声であり、完璧な歌唱力であった事がお分かり頂けるかと思います。
彼女はこの年(1990年)レースクイーンやグラビアなどの仕事をこなしていましたが、ここでチャンスが訪れました。
所属事務所の代表取締役から音楽制作会社であるビーイング社長の長戸大幸氏を紹介され、B.B.クィーンズにおけるコーラス隊のオーディションに参加する事になったのです。
「B.B.クィーンズ」とは、1990年に放送開始した「ちびまる子ちゃん」のエンディング「おどるポンポコリン」を歌っているグループです。
「おどるポンポコリン」は織田哲郎氏↓が作曲したのですが、彼こそが坂井泉水率いるZARDを始めとして大ヒット曲を連発していく事になる大作曲家です。 坂井泉水さんはこのオーディションに落選しましたが、プロデューサーの長戸氏は彼女の才能を認め「ZARD」という音楽ユニットでメインボーカルとして採用することを決定し結成準備に入りました。
坂井泉水のデビューと初めての歌詞作り
坂井泉水が歌詞作りに取り組んだ理由
1991年(平成3年、当時24歳)2月10日、ZARDはデビュー曲である「Good-bye My Loneliness」をリリースしました。 このデビュー曲の作曲は織田哲郎氏ですが、作詞は坂井泉水さんです。プロデューサーの長戸氏はデビューする坂井さんに対して以下のような課題を課していました。
「自分の言葉で歌うために、自分で作詞すること」
長戸氏は坂井さんに強みを持たせるため「歌詞をきちんと書いて、自分の言葉で伝えていくこと」の重要性を説きました。
こうして坂井さんは歌詞を自分で書いていく自覚と覚悟が生まれました。
坂井さんは長戸氏に与えられた課題を意識し、普段から想いの詰まった言葉を書き留めていきました。
提供された楽曲の、どの部分で歌うのが一番効果的なのか?
彼女は一言ずつ言葉を選び、1か所ずつ歌い、作詞に組み入れていきました。
坂井さんはその後、長戸氏との約束を守りデビューから16年間、時間があれば毎日のように詞を書き続けました。
坂井泉水は歌詞に魂を込めた
坂井泉水さんは小さい頃から詩を書くことが好きで、言葉を選びのセンスを磨いていました。もちろんそれでけではなく、彼女の繊細な感性がなければ、ZARDの心を打つ歌詞は生まれません。
坂井泉水さんは亡くなる数年前にこんな言葉を残しています。
「これからも感性を大切にし、記憶に残る楽曲を出したい。”やっぱりZARDの曲っていいよね”と言ってもらえるように頑張りたいですね」
「私はいつも言葉を、詞を大切にしてきました。音楽でそれが伝わればいいなと願っています。」
上記の言葉から、彼女がいかに歌詞を大切にし、魂を込めていたのか伺えます。
また、作曲を手掛けた織田哲郎氏は坂井泉水さんの作詞について、
「彼女はメロディーを最大限に生かす言葉を見つけてくれる人でした」と後年語っています。

【織田哲郎 あれからこれから】“コピーライティング力”凄かったZARDの坂井泉水さん 「メロディーを最大限に生かす言葉を見つけてくれる人」
1996年1月、アニメ『スラムダンク』のエンディングテーマに使用されたZARDの「マイフレンド」がリリース。3月にはアニメ『ドラゴンボールGT』のオープニング…
坂井泉水は女性の繊細な気持ちを表現した
坂井泉水さんの歌詞は、男性では決して描けない「女性の繊細な気持ち」や「心の揺れ動き」を見事に表現しました。例えば、恋愛や別れ、孤独や悲しみ、といった女性の心の奥深くにある感情を鮮やかに描き出し、聴く人々の心に深く訴えかけました。
デビュー作の冒頭においても「心の奥を あなたに のぞかれそう」「瞳をそらしても 気づかれそうで」との歌詞があります。
坂井泉水さんは女性の心の複雑さや微妙なニュアンスを独自の視点で捉え、その繊細な気持ちを音楽を通じて伝える事がとても上手なアーティストでした。
彼女の美しい歌声と情感溢れる歌詞は、聴く人々に共感を呼び起こしました。
坂井泉水さんの作品は、今でも多くの人々にとって心の支えとなっています。
坂井泉水は作詞の天才からノウハウを受け継いだ
ZARD・坂井泉水さんの作詞にあたってもう一つ秘話があります。彼女に「作詞をして自分の言葉を自分で伝える」ことを求めたプロデューサーの長戸氏は、英語フレーズの作詞において天才的な才能を持っていたのです。
そこで彼はデビューする坂井泉水さんに対して以下のような作詞ノウハウを教え込みました。
- 口語体で書く
- Aメロで情景描写をする
- Bメロで状況説明をする
- サビで願望を言う
- サビに曲タイトルを入れる

いま明かされたZARDのデビュー曲と大滝詠一の「不思議な秘話」 | FRIDAYデジタル
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なぜ坂井泉水の歌は心に響くのか?
坂井泉水の優れた歌唱力
ZARDの歌は心に響くものが多いです。それは、これまで述べたように
- 織田哲郎氏による定評のあるメロディ
- 長戸氏が教えた作詞ノウハウ
- 坂井泉水さんの感性が活かされた繊細な歌詞
坂井泉水さんはデビュー前から完成された歌声でしたが、関係者もこぞってデビュー時から彼女の歌唱力を高く評価していました。
ZARDのみならずB’zやWANDSなど、数々のヒット曲における編曲を手掛けた明石昌夫氏も「坂井泉水さんの歌唱力はすごかった」と述べています。 また作曲家の織田哲郎氏も前項で紹介した動画の中で「坂井さんは最初から完成された歌声だった」と述べていますね。
さらには坂井泉水さんのデビューにあたって、彼女を担当した音楽ディレクターの寺尾氏も「坂井さんは最初から大きな声だった。剣道でもやっていたの?と聞いた事もある」と述べています。
坂井泉水さんの歌声は
- 音色が美しく
- 遠くまでしっかり届く声である
- 聴き心地も非常に良い
- 発声・歌唱のテクニックも完成されている
彼女の歌唱力は練習でどうにかなるものではなく、生まれ持った天性の素質です。
だからこそ、彼女はどんな歌を唄っても完璧に歌い上げることができました。
坂井泉水はレコーディングに命をかけた
坂井泉水さんは作詞に限らずレコーディングにおいても全力を注いでいました。 ディレクターである寺尾氏は、坂井さんがレコーディングが終わると魂が抜けたように椅子に座り込んでいた事を明かしています。これは彼女が歌に対して、命も、魂も、すべてを注ぎ込んでいたという証です。
彼女が魂を込めて全力で歌わなければ、彼女の歌(魂)は聞く側に伝わらず、才能や努力も無意味なものになっていたでしょう。
坂井泉水さんの「人間味あふれる歌唱」は人々の心を打ち、感動を与えました。

ZARD(坂井泉水)「負けないで」が生まれた経緯と歌詞の意味
「負けないで」は坂井泉水さん自身の強い思いやメッセージが込められた曲として知られています。 坂井泉水さんの透き通った歌声と、力強いメッセージが合わさったこの曲は、人生の困難や苦難に立ち向かって前に進む力強さや希望を歌って …
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