
なおえもん
まいど、なおえもんやで
母のまぶたがパックリと割れ、中から白い皮下組織が覗いていた。
あの凄惨な光景と、泣き崩れる母の姿は、36年が過ぎた今も昨日のことのように脳裏に焼き付いている。
事件が起きたのは、1990年の春。
なぜ誰にでも優しかった母が、実の夫である父によって、あんな血まみれの目に遭わされなければならなかったのか。
震えて見ていることしかできなかったあの日、我が家で何が起きていたのか。その全貌をここに書き記す。
※本事件から遡ること1年。10歳の私が偶然録音していた「家庭崩壊の予兆」はこちら
父が母を殴り飛ばした日
当時、小学5年生だった私は、父の妹夫婦が経営するアパートの上下2室を間借りして暮らしていた。1階は、タクシー運転手として24時間勤務を終え、明け方に帰宅した父が眠るための部屋。
2階は、私や母、妹が食事をしたり風呂に入ったりして過ごす生活の場。
そうやって「父の睡眠」を邪魔しないよう、物理的に距離を置いて、毒親である父を刺激しないよう細心の注意を払って暮らしていた。
母は普段から、下の階で眠る父を叩き起こさないよう、妹に「お願いだから静かにして!」と縋るように懇願するのが日課だった。
だが、5歳の妹はその恐怖を、母を意のままに動かすための「スイッチ」として利用していた。
妹は気に入らないことがあれば、わざと1階まで届くような絶叫を上げ、父という暴力の恐怖を母に向けさせる。
この時すでに、我が家には「妹が叫び、父が殴る」という、母を追い詰めるための逃げ場のないシステムが完成されようとしていたのだ。
同時に、母は妹に弱みを握られ、逃げ場のない支配へと引きずり込まれ始めていた。
1階で寝ている父にとって、その絶叫は眠りを妨げる腹立たしい騒音。そして、母を攻撃するための絶好の「口実」でもあった。
あの日も、耳を突き刺すような妹の絶叫が、部屋に響き渡った。
案の定、その直後に一階から激しい父の怒鳴り声が聞こえ始めた。
そして「ドタドタドタッ」父が階段を駆け上がってくる不吉な足音が聞こえた。
「ほら来たやんか!」母は恐怖と絶望におののき始めた。私もすぐに状況を理解し、全身が凍りついた。
そして父が2階の部屋に入ってきた。
「静かにさせんかい!!!!!」
怒鳴り声と同時に、父の拳が母に向かって振り抜かれた。

父に殴り飛ばされる母
自分の事しか考えられない自己愛性人格障害である父には、自分が加害者だという意識など微塵もない。
むしろ「せっかく寝ているのに起こされた自分こそが被害者だ」という凄まじい認知の歪みを持っていた。
自分が被害者であり「母は殴られて当然」という認識だった。
父は母を殴り飛ばした後、さらに追い打ちをかけるかのように何発も殴る。

父に殴られる母親
これが自己愛性人格障害の恐ろしい病理である。
そして母を殴った父は満足したのか、それとも罪悪感から後ろめたくなったのか、平然と階下の部屋へ帰って行った。
父が去った後、母はタンスの引き出しに崩れ落ちるように寄りかかった。
そして「うわあぁぁあああああああああーーーーー!!!!!!!!!」と悲鳴にも似た、大声を上げて号泣し始めた。
11歳の私の心は、もう、張り裂けそうだった。
母を助けたい。けれど、子供の私にはどうしてあげたらいいのかわからない。
恐怖とパニックに飲み込まれた私の喉からは、声ひとつ出すことができず、ただ大泣きしている母の背中を見つめることしかできなかった。
母を守ってあげられない自分の無力さが、情けなかった。悔しかった。
しばらく号泣した後、母はやっと顔を上げた。
しかしその顔を見て、私は息が止まりそうになった。
母のまぶたはパックリと深く割れ、中から白い皮下組織が覗いていたのだ。
「まぶたが割れてる!!! 早く病院行って!!!!」
泣きそうになりながら叫ぶ私に、母はうなずいてはくれない。
「お願いだから病院に行こ!!!!!早く!!!!」
私は母のことが心配で、心配で、必死で懇願することしかできなかった。
あれから36年経った今でも、当時の光景が鮮明にフラッシュバックし、私の胸を締め付ける。

なおえもん
思い出す度、あの毒親である父を〇したくなる
DV被害による母の負傷と隣町・姫路への逃避行
その後、母は私と妹の手を引き、家を出た。どこへ行くのか?病院に行こうとしてる様子ではなかった。
深い沈黙を守りながら歩く事、数十分。着いたのは最寄りの駅だった。
そして電車に揺られて20分、あてもなく辿り着いたのは姫路の街だった。

姫路の大手前通りを歩く私と母と妹
道行く人が、異様な傷を負った母を見ては通り過ぎていく。
最愛の優しい母が死んでしまうのではないかという恐怖。
母の目が潰れていたらどうしようという不安。
そして「今日からどうなるのか、どうしたらいいんだ」という絶望と苦悩と不安が、11歳の心を支配していた。
すれ違う見知らぬ大人たちの顔を見ながら、私は何度も、その袖を掴んで呼び止めたい衝動に駆られた。
「母が父に殺されかけたんです。助けてください!」と。
社会の仕組みなど何も知らない11歳の子供なりに、私はその足りない頭を振り絞って、母を守る事を必死に考えていた。
だが、そんなことを相談できる相手は、この広い街にも、学校にも、どこにもなかった。
私はただ、行き場のない不安と絶望を、以後抱え続けるしかなかった。

なおえもん
毒親のせいで何もかもが不安で仕方がなかった
「いいから買い」傷だらけの母に背負わせてしまった十字架
ダイエーを出た後、私たちは姫路の大通りをあてもなく歩いた。行き場もなく、ただただ歩いて時間が過ぎるのを待つしかない中、私たちの目の前にファミコンショップが現れた。
私は何気なく「この店に入っていい?」と母に聞いた。
母の承諾を得て、私たちは店に入る事になった。
本当に、ただソフトを眺めるだけのつもりだった。
ほんの一瞬でも、目の前の地獄から目を逸らしたかっただけなのだ。
母に買わせる気など、毛頭なかった。
しかし、そんな子供のささやかな現実逃避が、結果として母に無理をさせてしまう事に繋がった。
私はその店内で気になるゲームソフトを眺めていた。
すると母は「これ欲しいんか?」と聞いてきた。
私は正直、このソフトは気になっていた。欲しかったのかもしれない。
だが、そんな事をしている場合ではないし、していいわけがない。
そんな事は子供の私でもわかりきっていた。
だから私は「いや…」と言葉を濁した。
母が重傷を負い、病院にも行かずに逃げている状況で、そんなものを買ってほしいと思うはずがない。
母の所持金も僅かだったはずだ。
しかし、母は私に気を遣って優しく再び「買い!」と言ってきた。
私は「いや、いらない…」と買ってもらう事を拒否し続けた。
それでも母は「いいから買いっ!」と私の背中を押し、結局、私はこのゲームソフトを買ってもらう事になった。
レジで母が財布を開く姿を見ながら、私は胸が張り裂けそうだった。
こんな一大事に、無意味で高額なものを買わせてしまったという強烈な後悔と罪悪感。
そのお金は、母の治療費や父から逃走するための資金にするべきだったのに。
母があの日、なぜ無理をしてまでソフトを買ってくれたのか。
あんな暴力父を選んでしまった母から、子供への精一杯の「詫び」だったのか?
とにかく私は母に無事でいて欲しかった。それだけで良かった。ゲームなんてどうでも良かった。
しかし、そんな些細な願いさえ叶わなかった。
心を落ち着けて休める、安全な場所さえ、私たちは手に入れる事ができなかった。

なおえもん
母に買わせてしまった後悔心が今でも湧いて来る
父の暴力によって私は生きた心地のしない毎日へ
無力な子供だった私は、結局そのまま地獄のような日常へ戻るしかなかった。あの日以来、学校に行くだけで母のことが心配になった。
母が無事であることを祈るしかない、生きた心地のしない毎日へと変わってしまったのだ。
毒親である父は、普段から威圧的で暴力的な男だったからだ。
父が母に対して何をするか分からないという恐怖は、私の精神を消耗させ続け、心を削り続けた。
その後に起った人生の転機
11歳の私は、あの惨状をただ震えて見ていることしかできなかった。しかし、あの惨劇から6年後。
再び「パシーーーーーーン!!!!」という母を叩く音が家中に響き渡った瞬間、17歳になった私は父を殴り飛ばし、母を守る事になる。
今回の11歳での屈辱的な出来事が、6年後に私が自らの手で、あの暴力的な父との生活を強制的に終わらせ、両親の離婚を成立させるための、決定的なきっかけとなったのだ。
なお、この母がまぶたを割られた大事件から遡ること1年。
当時10歳の私が偶然ラジカセで録音していたカセットテープに、この事件の引き金となる「我が家の狂気の予兆」がすべて克明に記録されていた。
奇跡としか言い様がないその生々しい音声の記録については、以下の記事に記している。

