
なおえもん
まいど、なおえもんやで
私にとってのそれは、90年代後半、平成大不況が深刻な影を落とし始めていた頃の、ある建築現場での出来事です。
今思えば、あれこそが「氷河期世代」が味わった、人間を人間とも思わない「使い捨て」の縮図だったのかもしれない。
憧れと、切実な事情
幼い頃、私はなぜかコンクリートを塗る「左官」という仕事に淡い憧れを抱いていた。90年代後半、持病を抱え、母子家庭になった事もあり親を頼ることもできず、私はとにかくお金を必要としていた。
求人チラシで見つけた「左官募集」の文字。
憧れと切実な生活苦が重なり、私はその門を叩いた。
初出勤の朝、私は親方に連れられ作業服屋へ向かった。新しい作業着に袖を通し「ここで頑張るんだ」と自分に言い聞かせていた。
10代の純粋な決意。それが、その日のうちに粉々に砕け散るとも知らずに。
地獄の「荷揚げ」:20Lペール缶の重圧
現場は大阪のマンション建設現場。まだ夜も明けきらぬ午前4時か5時に集合し、親方の車に揺られて現地へ向かった。
私に与えられた任務は、想像を絶するものだった。
20リットルのペール缶に、セメントの粉と砂と水を満タンに入れ、ミキサーで混ぜる。
そして、その40kg〜50kgはある重塊を、3階まで階段を使って運ぶ。
それをたった一人で、一日中繰り返すのです。
40kgという重さは、腰を傷めて一生動けなくなるほどのダメージを与えるレベル。
平地で持つ事でさえ必死なその重さを、持ちにくいペール缶の取っ手一本で支え、一段ずつ階段を上がる。
一段上がるたびに腰と膝が悲鳴を上げ、手のひらは取っ手が食い込んで引きちぎれそうな痛みに襲われた。
現代ならエレベーターや荷揚げ機を使うか、複数人で行う作業。
しかし、当時の現場には「効率」も「安全」もなかった。
あったのは、安く雇った若者を、壊れるまで使い倒すという「使い捨て」の論理だけだった。
そんな命を削るような労働の対価は、良くても日給6000円程度。
従業員わずか2名の零細で、労災保険にすら入っていたのか怪しい。
万が一、階段で足を踏み外して大怪我をしても、きっと私はゴミのように切り捨てられていたでしょう。

なおえもん
今思い返すと頭おかしい
抜け出せない、見ず知らずの土地での絶望
スマホの地図なんてない時代。あまりの過酷さに「帰りたい」と何度も思ったが、そこは見ず知らずの大阪の地。
逃げ出す術も、助けを呼ぶ手段もありません。
昼飯をどうしたかも覚えていないが、おそらく喉を通る余裕もなかっただろう。 体中の筋肉が震え、意識が朦朧とする中で「自分は何をしているんだろう」という空虚感だけが膨らんでいった。
「ありがとうぐらい言え」最後の追い打ち
ようやく一日が終わり、帰りの車中。私は死ぬほどの勇気を振り絞って、親方に「辛すぎて耐えられないので辞めます」と伝えた。
もう1分1秒もこの環境には耐えられない。身も心もこれ以上削られることに耐えられなかった。
親方は「そうかわかった」と言い、こう続けた。
「今日買った作業服は、やるわ」
私はもう、言葉を返す気力すら残っていなかった。
顔は死に、魂が抜けたような状態で「はい……」と力なく答えるのが精一杯だった。
すると親方は、私に向かって言い放ったのです。
「『ありがとうございます』ぐらい言え」
この一言が、私の心に最後のとどめを刺した。
一日中、奴隷のように酷使し、ボロ雑巾のように使い捨てておいて、最後には「感謝」を要求する。
これが、当時の大人が若者に向ける眼差しだった。
あの「氷河期」とは何だったのか
私は結局、その一日で左官の道を諦めた。無礼者だと思われるかもしれない。根性がないと言われるかもしれない。
でも、あの現場にあったのは「育成」ではなく、ただの「搾取」だけだった。
氷河期世代が経験してきたのは、こうした「過酷な労働」と、それを受け入れなければ生きていけない「絶望的な選択肢の少なさ」。
そして、どれだけ傷ついてもひどい扱いを受けても「感謝」や「礼儀」という名目で、さらに精神を抑圧される時代であった。
あの日、大阪の空の下で感じたペール缶の重みと、親方の突き放すような言葉。
それはただの苦労話などではなく、私の心に「社会への不信感」や「将来への絶望と不安」を残した、凍てつくような原体験となった。
