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阪神大震災において被災した体験談

阪神大震災の激しい揺れ

1995年1月17日午前5時46分。

高校受験を目前に控えた15歳の冬、私は阪神大震災に襲われ、激しい揺れで目を覚ました。

真冬の早朝、停電で真っ暗闇の中、世界が終わるような揺れだった。

当時の日本には「災害が起こる」という意識さえなかったのである。

関東大震災のことなど、誰も語らず、誰も覚えていない時代。

大衆が気軽に使えるネットもない時代、庶民の知識は限られていました。

地震など、ほとんど経験したことがなかった私は、地球に隕石が落ちて、地球が滅びゆく瞬間なのかと本気で思ったのです。

阪神大震災の激しい揺れによってタンスの上の置物が母の額に落ちたりもした。

揺れが収まっても、母は混乱したまま「ギャーーーー」と叫び続けるばかり。

15歳の私が「落ち着け!」と諭すほどの混乱ぶりでした。

地震発生直後に起きていた事

阪神大震災の激震が収まり始め、外に飛び出すと、近所の人たちも一斉に家から出てきていました。

ジャンパーや毛布をかぶって、恐怖に怯えながら様子を伺っている光景。

誰もが何をしていいのかわからず、ただラジオをつけてみたり、立ち尽くしたりしているだけでした。

辺り一面、ガスの臭いが充満していました。ガス漏れが至る所で起きていたのでしょう。

いつ引火して大爆発するかもわからず、私は身体を震わせながら立っていました。

庶民も国も、地震が来るという想定さえしていない時代。

なんの備えなどあるはずもありません。

家が倒壊する恐怖に怯えながらの被災生活

地震後に家に戻ると、あらゆるものが散乱していた。

電子レンジは前方に飛び出し、コードが引っ張られて宙吊りになっていた。

家の壁は剥がれ落ち、水道もガスも電気も完全に止まっていた。

片付けを終えても、激しい余震が1日に何十回も襲ってくる。

その度に「また大地震が来るのではないか」と、ボロ家に住む私は怯え続けました。

そもそも「大地震の余震」という知識さえ、当時の庶民にはなかったのです。

どれだけの不安が渦巻いていたことでしょう。

住んでいた家が倒壊する恐怖が、頭から離れませんでした。

揺れが来るたび「次は自分の家が潰れるのではないか」という恐怖。

それと共に過ごす日々が続きました。

被災生活の辛さ

阪神大震災で被災し、電気のない生活が始まった。

夜はスチール缶にろうそくを立て、溶けたろうそくも燃やして灯りをともした。

明かりがない以上、夜は早く寝るしかありません。

薄暗い部屋で、私たちは日が暮れるとともに眠りについていた。

水は近くの浄水場まで、ポリタンクを持って汲みに行っていた。

その水を風呂にため、いろんな家事洗濯トイレを流すために使います。

ガスは数か月経っても開通せず、食事を作ることさえままなりませんでした。

コンビニで気軽に買える時代でもなく、食事には本当に苦労しました。

両親の実家も倒壊し被災

当時の新聞には死亡欄があり、亡くなった方の名前が普通に掲載されていました。

毎日、神戸新聞の死亡欄には、おびただしいほどの死者の名前が並んでいました。

私の父の実家は神戸市長田区戸崎通=西代、母の実家は神戸市須磨区の板宿町=板宿にありました。

西代も板宿も、激しい揺れによって倒壊や火災が相次いだ地域です。

両方の親類宅とも、倒壊してしまいました。

身近な場所が、次々と失われていく現実。

十五歳の私は、ただ受け止めきれないまま見ていたのです。

日本における防災意識の原点

余震は半年どころか、一年近く頻繁に続きました。

受験を行った校舎も、壁がバキバキに割れた校舎でした。

それが当たり前の光景だったのです。

あの日から、日本は変わりました。

災害への備えという概念が生まれました。

しかし、あの恐怖を経験した者として言えることは、どれだけ備えても、その瞬間の恐怖と混乱は消せないということです。

揺れ、暗闇、臭い、静けさ。

それらは今でも、はっきりと記憶に残っています。

ただ、知識があれば、少しだけ冷静になれるかもしれません。

それだけでも、大きな違いなのだと、今になって思うのです。

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