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坂本龍馬「過大評価論」への反証

  • 坂本龍馬の過大評価論は史料に基づく検証が不十分
  • 明治政府は龍馬に正四位という高い位階を追贈し、その功績を評価していた
  • 司馬遼太郎以前から戦前教科書や映画で龍馬は重要人物として扱われていた
  • 薩長同盟において龍馬の役割は明治政府によって公的に認められていた
  • 明治時代から龍馬への注目と評価は確実に存在していた
  • 幕府が龍馬を二度も狙撃したことは、その重要性を示す決定的証拠
  • 薩摩藩が重傷の龍馬を庇護した事実は、その政治的価値を物語る
なおえもん

まいど、なおえもんです

近年「坂本龍馬は過大評価されてきた」「幕末に大活躍は間違いだ」「ほとんど影響を与えなかった」というバイアスのかかった愚かな論調が、日本の歴史作家をはじめ盛んに語られています。

2017年には高大連携歴史教育研究会が「坂本龍馬」を教科書から削除すべきとする提言を行い、大きな話題となりました。

しかし、このような「龍馬過大評価論」は果たして妥当なのでしょうか。
史料に基づく検証を通じて、龍馬の真の歴史的評価と意義を再考してみましょう。

この記事では、過大評価論の主な論点を整理し、史料に基づいた反証を示すことで、坂本龍馬の真の歴史的価値を明らかにしていきます。

坂本龍馬における過大評価論の主な論点

現在語られている龍馬批判の主な論点は以下の通りです。
  • 薩長同盟への関与の否定「薩長同盟において重要な役割は担っていない」「立会人程度だった」という主張
  • 船中八策のフィクション説「船中八策は明治以降の龍馬の伝記のなかで、しだいに形成されていったフィクション」という指摘
  • 司馬遼太郎による虚像説司馬遼太郎の『竜馬がゆく』により作られた「創作上の坂本竜馬」が国民的英雄となったという見解
これらの批判論は一見もっともらしく聞こえますが、史料に基づいた検証を行うと、実は根拠が薄弱であることが明らかになります。
なおえもん

まずは史料を確認

坂本龍馬における過大評価論の反証

上記の過大評価論に対しての反証を史料に基づいて検証してみましょう。

司馬遼太郎による創作説を検証する上で最も重要なのは、司馬遼太郎以前から龍馬がどのように評価されていたかを確認することです。

明治16年『汗血千里の駒』による第一次龍馬ブーム

明治16年(1883年)、坂崎紫瀾の新聞小説『汗血千里の駒』が発表されると、その評判が巷間で急速に高まりました。
この作品によって坂本龍馬は維新の偉人として一躍庶民の間でもその知名度を上げることになります。

『汗血千里の駒』は土陽新聞に連載された新聞小説で、坂本龍馬を主人公とした物語でした。
当時の新聞小説としては異例の人気を博し、龍馬の名前を全国に知らしめることとなりました。

この作品が発表されたのは司馬遼太郎の『竜馬がゆく』(1962年〜1966年)よりも約80年も早い時期です。
つまり、龍馬への国民的な関心は明治時代から既に存在していたということになります。

坂崎紫瀾は土佐出身の新聞記者・小説家で、実際に龍馬と同時代を生きた人物から直接話を聞く機会があった人物です。
そのため、『汗血千里の駒』には単なる創作ではなく、実際の証言に基づいた内容が含まれていたと考えられます。
第一次龍馬ブーム
明治16年の『汗血千里の駒』による龍馬ブームは、司馬遼太郎(司馬史観)以前から龍馬が注目されていた重要な証拠です。
当時の新聞小説が大きな反響を呼んだということは、龍馬の功績が当時の人々にとって魅力的で説得力のあるものだったことを示しています。
この時期の龍馬ブームは、後の司馬遼太郎作品の成功の土台となったとも言えるでしょう。

土佐藩による犯人追及の努力

また、土佐藩は坂本龍馬の暗殺犯を懸命に処罰しようとした記録も残っています。

龍馬暗殺後、土佐藩は藩をあげて犯人の捜索と処罰に努めました。
これは龍馬が単なる一介の脱藩浪士ではなく、土佐藩にとって重要な人物であったことを示しています。

もし龍馬が本当に「取るに足らない人物」だったとすれば、土佐藩がここまで熱心に犯人を追及することはなかったでしょう。
藩が公式に犯人追及に乗り出したということは、龍馬の功績と重要性を藩が認めていた証拠と言えます。
なおえもん

明治時代から龍馬は注目されていた。司馬遼太郎が作り上げた虚像ではない事がよくわかる

明治新政府と朝廷は坂本龍馬に正四位の位を送っている

明治24年(1891年)に、明治新政府と朝廷は維新に貢献した土佐の志士の中から特別に、坂本龍馬、武市半平太、中岡慎太郎、吉村虎太郎の四名に正四位の位を送りました。

正四位という高い位階を追贈されたこと自体が、当時の政府が龍馬の功績を相当に評価していた証拠と言えるでしょう。
明治政府がこのような高い位階を追贈するには、それなりの重要な功績があったと判断したからこそでしょう。

また、土佐の志士の中から「特別に」坂本龍馬、武市半平太、中岡慎太郎、吉村虎太郎の四名だけが選ばれたということも重要です。
土佐藩には他にも多くの志士がいた中で、この4人だけが選ばれたということは、彼らの功績が他の志士と比べても突出していたと評価されていたことを示しています。

さらに、明治24年という時期も意味があります。
これは維新から20年以上が経過し、明治政府が安定期に入った頃です。
この時期に改めて追贈を行ったということは、冷静な歴史的評価を経た上での判断だったと考えられます。

正四位という高位の追贈そのものが、龍馬が維新に対して相当な貢献をしたことの動かぬ証拠と言えるでしょう。
正四位の重要性
正四位は江戸時代の官位制度では非常に高い位階です。
明治政府がこの位階を追贈したということは、龍馬の功績を国家レベルで公式に認めたことを意味します。
これは現代の過大評価論者が見落としがちな重要な史実です。

幕府による執拗な追及が示す龍馬の重要性

坂本龍馬が「大したことない人物」だったという過大評価論に対する最も強力な反証の一つが、幕府側による執拗な追及の事実です。

もし龍馬が本当に取るに足らない人物だったとすれば、幕府がここまで執拗に龍馬を狙い続けることはなかったでしょう。

注目すべきは、薩長同盟成立のわずか2日後に寺田屋事件が発生していることです。
これは偶然ではなく、薩長同盟における龍馬の重要な役割を幕府側が認識していたからこそ、急遽捕縛作戦を実行したと考えられます。

薩長同盟は慶応2年(1866年)1月21日に成立し、寺田屋事件は1月23日に発生しました。
このタイミングの一致は、幕府が龍馬の動向を常に監視し、その政治的影響力を深刻に受け止めていたことを示しています。

二度にわたる幕府の龍馬狙撃

幕府は龍馬を二度も狙撃しています。

一度目は慶応2年(1866年)1月23日の寺田屋事件です。
この時、龍馬は奉行所の捕方に襲撃されましたが、お龍の機転により辛うじて脱出しました。
しかし、この襲撃で龍馬は手に重傷を負い、薩摩藩邸に逃げ込むことになりました。

二度目は慶応3年(1867年)12月10日の近江屋事件です。
この時は見廻組によって龍馬と中岡慎太郎が襲撃され、龍馬は命を落とすこととなりました。

重要なのは、幕府が一度の失敗で諦めることなく、二度目の襲撃を実行していることです。
これは龍馬の存在が幕府にとって相当な脅威であったことを物語っています。

薩摩藩による龍馬の庇護

寺田屋事件で重傷を負った龍馬を、薩摩藩が藩邸でかくまったという事実も重要です。

薩摩藩は当時、幕府との関係が微妙な状況にありました。
そのような中で、幕府に狙われている龍馬を藩邸でかくまうということは、相当なリスクを伴う行為でした。

もし龍馬が単なる一介の浪士であったなら、薩摩藩がここまでのリスクを冒してまで保護することはなかったでしょう。
薩摩藩が龍馬を庇護したということは、龍馬の政治的価値と重要性を薩摩藩が認めていたことの証拠です。

さらに、薩摩藩は龍馬の怪我の治療のために、霧島温泉での湯治まで手配しています。
これは単なる一時的な保護を超えた、手厚い待遇でした。
幕府の警戒心の意味
幕府が龍馬を二度も狙撃したということは、龍馬の活動が幕府体制にとって深刻な脅威であったことを意味します。
当時の幕府は多くの志士を相手にしていましたが、特定の人物を繰り返し狙撃するということは極めて異例のことでした。
これは龍馬の影響力がいかに大きかったかを示す動かぬ証拠です。
なおえもん

幕府が二度も狙うなんて、よほど重要人物だった証拠だね

明治33年(1900年)に今井信郎が近江屋事件について取材を受けた

明治33年(1900年)、今井は親しくしていたキリスト教伝道師結城無二三の子結城禮一郎の取材に応じ、近江屋事件への関与について語りました。

なぜ近江屋事件をその時になって取材したのでしょうか。
明治33年(1900年)に今井信郎が近江屋事件について取材を受けた背景について、いくつかの要因が考えられます。
  • 明治30年代の維新史への関心の高まり
    明治維新から30年以上が経過し、この時期は維新史を振り返る機運が高まっていました。明治政府が安定し、国民の間で幕末・維新期への懐古的関心が高まっていた時期でした。
  • 生存者の証言を記録する必要性
    明治33年頃になると、維新期の生存者が高齢化し、貴重な証言を残す最後の機会という認識が強まっていました。今井信郎自身も当時59歳で、戦友の多くが既に亡くなっている状況でした。
  • 新聞・雑誌メディアの発達
    明治時代の初頭から日本の社会に急速に浸透し、新聞、雑誌、書物の分野で存分に力を発揮していきました。1870年に早くも発刊された「横浜毎日新聞」、それに続いた「東京日日新聞」など、明治30年代には新聞・雑誌メディアが充実し、歴史的事件への取材需要が高まっていました。
  • 龍馬暗殺事件の未解決性
    当時はまだ近藤勇らが犯人と信じられており、見廻組犯行説は十分に知られていませんでした。今井の証言は「新説」として注目される価値がありました。
  • 今井信郎の社会的地位の変化
    のちに雑誌に転載されたものを見た谷干城は、中岡からの証言と異なっていることなどから、今井の証言を「偽物」とし、「売名の手段に過ぎぬ」とたびたび発言していましたが、今井は当時静岡で村長を務めるなど社会的地位を得ており、その証言には一定の信憑性があると考えられていました。
  • キリスト教との関係
    今井がキリスト教に帰依し、結城無二三という伝道師と親しくしていたことで、「真実を語る」という宗教的動機もあったと考えられます。
つまり、明治33年の取材は、維新史への関心の高まり、生存者証言の記録の必要性、メディアの発達、そして歴史的謎への新たな証言という複数の要因が重なったタイミングで行われたものでした。

このような多角的な背景が重なることは、歴史的証言としては極めて異例です。
もし龍馬が本当に「大したことない人物」だったなら、メディアが積極的に取材せず、生存者証言の記録価値も低く、「新説」として注目されることもなく、社会的地位のある人物が証言する動機もなかったでしょう。

これほど多くの要因が重なって取材が実現したということは、龍馬という人物と近江屋事件が当時の社会にとって極めて重要で関心の高い事件だったことを物語っています。
つまり、この「異例さ」こそが龍馬の歴史的重要性を裏付ける証拠となるのです。
なおえもん

これだけ多角的な背景があるという事は、龍馬への関心がいかに高かったかの証拠

戦前の映画でも取り上げられている

司馬遼太郎(司馬史観)以前から龍馬が注目されていた証拠は、文学作品だけではありません。
戦前の映画界でも、坂本龍馬は重要な題材として扱われていました。

昭和初期の映画界では、著名な俳優たちが坂本龍馬役を演じていました。(出典)
阪東妻三郎、月形龍之介、榎本健一といった当時の人気スターが龍馬を演じたことは、龍馬が既に魅力的な人物として認識されていたことを示しています。

注目すべき作品として以下があります。
  • 『坂本龍馬』(1928年)
    阪東妻三郎が主演を務めた作品。田村正和の父として知られるバンツマが龍馬を演じました。戦前の映画であるため、現在は近江屋での襲撃場面など一部のフィルムしか残存していません。
  • 『海援隊』(1939年)
    時代劇の名優・月形龍之介が龍馬役を担当。嵐寛寿郎が近藤長次郎役で共演した本格的な幕末映画です。この作品はキネマ旬報のベストテン映画に選出される高い評価を獲得しました。
これらの映画制作時期は、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』発表よりも数十年早い時代です。
戦前の段階で既に龍馬は映画の主役として描かれており、観客からの支持を集めていました。

特に重要なのは、戦前の映画で描かれた龍馬像が現在の龍馬像と基本的に同じだったという点です。

この映画の中で、龍馬を暗殺したのは佐々木只三郎を含む見廻組になっていて、すでに現在語られる坂本龍馬にまつわる話と違いは全く見当たらない。

つまり、よく言われる「坂本龍馬は司馬遼太郎によって有名になった。」というのは、まさに都市伝説で、その雛形は当時すでに出来上がっていたようだ。

戦前の映画は幕末モノがとても人気があって、坂本龍馬は、当時からその中心人物だったのだ。

この指摘は非常に重要です。
戦前の映画で既に龍馬暗殺を見廻組の犯行とする説が定着していたということは、現在我々が知る龍馬の物語の骨格が司馬遼太郎以前から存在していたことを意味します。

また、戦前から幕末物映画において龍馬が中心人物として扱われていたという事実は、龍馬の人気と評価が明治時代から継続していたことの動かぬ証拠と言えるでしょう。

これらの映画が商業的に成功していたからこそ、繰り返し龍馬を主人公とした作品が制作され続けたのです。
つまり、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』は龍馬を「創造」したのではなく、既に存在していた龍馬への関心と評価を「再発見」し、現代に蘇らせた作品だったということになります。
戦前映画の意義
戦前の映画で龍馬が取り上げられたことは、当時の大衆文化における龍馬の位置づけを示す重要な史料です。
映画という大衆娯楽で主人公として描かれるということは、一般民衆にとって魅力的で親しみやすい人物として認識されていたことを意味します。

戦前の教科書でも重要な人物として取り上げられている

戦前の教科書における龍馬の扱いも、司馬遼太郎以前からの評価を示す重要な証拠です。

昭和18年の国定教科書(『初等科国史 下』文部省)には「朝廷では、内外の形勢に照らして、慶応元年、通商条約を勅許あらせられ、薩・長の間も、土佐の坂本龍馬らの努力によって、もと通り仲良くなりました」と記載されています。

昭和18年の国定教科書(『初等科国史 下』文部省)



薩長同盟の箇所には、西郷隆盛や木戸孝允は登場せず、薩長を取り持った人間として坂本龍馬の名前だけが出ているのです。
これは龍馬の功績が司馬遼太郎以前から公的に認められていたことを示しています。

国定教科書は国家が編纂した公式の教育資料です。
その中で薩長同盟における龍馬の役割が明記されているということは、明治政府とその後継である昭和政府が龍馬の功績を公式に認めていたことの動かぬ証拠です。

しかも、西郷隆盛や木戸孝允という薩長の主要人物よりも、龍馬の名前が優先して記載されているということは、薩長同盟における龍馬の役割がいかに重要視されていたかを示しています。
国定教科書の重要性
国定教科書は国家が公式に認めた歴史認識を示すものです。
昭和18年という戦時体制下で、国家が龍馬の功績を明記したことは、その歴史的評価が確固たるものであったことを示しています。
これは現代の過大評価論に対する最も強力な反証の一つです。
なおえもん

教科書に載るってことは、国が認めた歴史。これは重要な証拠となる

まとめ

坂本龍馬の「過大評価論」は、史料に基づく検証を行うと、その根拠が薄弱であることが明らかになります。

明治24年の正四位追贈、明治時代からの龍馬ブーム、戦前の映画や教科書での扱いなど、司馬遼太郎以前から龍馬は一貫して高く評価されてきました。
特に昭和18年の国定教科書において、薩長同盟の立役者として龍馬の名前が西郷隆盛や木戸孝允より優先して記載されていることは、その歴史的意義が国家レベルで公認されていたことを示しています。

さらに、幕府による二度の狙撃、薩摩藩による手厚い庇護という事実は、龍馬が当時の政治情勢において極めて重要な役割を果たしていたことを物語っています。
もし龍馬が「大したことない人物」であったなら、このような執拗な追及や手厚い保護が行われることはなかったでしょう。

現代の「過大評価論」は、これらの史料を十分に検証することなく、感情的な批判に走っている面があります。
真の歴史的評価は、偏見や先入観を排し、史料に基づいた冷静な検証によってのみ可能となります。

坂本龍馬は確かに明治維新において重要な役割を果たした人物であり、その評価は司馬遼太郎による創作ではなく、史実に基づいた正当なものだったのです。

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