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アメリカの侵略を受けたハワイ。国王のカラカウアは助けを求め日本へ。

west

なおえもん

まいど、なおえもんやで
本記事では「ハワイを侵略し乗っ取ったアメリカ」と「日本へ助けを求めに来たハワイ王国の国王」についてお話します。

この出来事は日本人にとって非常に重要な歴史であり、子々孫々に言い伝えなければならない真実ですが、ほとんどの日本人がこの事実を知りません。

ぜひ拡散して下さい。

ちなみに本記事を読んだ方からは以下のような感想を頂いています。
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ハワイ国王のアジア連合計画

カラカウア あなたはハワイ国王であったデイビッド・カラカウアを知っていますか?

かつてハワイが独立した王国だった時代、ハワイの支配を目論むアメリカに毅然と戦いを挑んだ人物です。

帝国主義が広がりつつあった1800年代、アメリカは太平洋の制海権を徐々に広げアジア地域への勢力拡大を目論んでいました。

その拠点に据えようとアメリカが狙ったのがハワイ王国です。

ハワイではアメリカ人が経済と政治を牛耳るようになり軍事拠点が置かれました。

アメリカの巧みな戦略によってハワイは蹂躙されていきました。

「このままではハワイはアメリカに飲み込まれてしまう」

しかし大国のアメリカ相手にハワイが敵うはずがありません。

そこでカラカウアは壮大な構想を打ち立てます。

「ハワイは欧米列強の侵略に苦しむアジア諸国と連帯し列強に立ち向かうべきだ」

これが彼が構想したハワイ・アジア連合計画です。

構想実現に向けて自らアジア各国と交渉しようとカラカウアはハワイを旅立ちました。

カラカウアが最も期待を寄せたのは欧米列強との不平等条約の改正に苦慮する日本でした。

来日したカラカウアは日本の明治天皇に会見を求め連合への協力を訴えました。

カラカウアは日本にハワイアジア連合の盟主として欧米列強に対抗する事を期待していました。

さらにカラカウアはハワイの王女と日本の皇族との縁組まで持ちかけたのです。

不平等条約の改正に解決の糸口がつかめない日本は決断を迫られました。

日本はこのまま欧米列強と果てしなき交渉を続けるのか?

それともハワイアジア連合に突き進むべきなのか?

まさにそれは歴史の転換点でした。

迫りくるハワイ王国の危機

ハワイ
太平洋に浮かぶハワイ諸島。

現在アメリカ50番目の州であるハワイは高層ホテルが立ち並ぶ世界で最も知られたリゾート地です。

このハワイがかつて大海原の中で隔絶されていた頃、独自の文化が育まれていました。

人々は自然の神を崇拝し、海や山の豊かな恵みを日々の糧としていたのです。

しかしハワイは1700年代後半、欧米列強における太平洋進出の波に曝されました。

英国人クックのハワイ来航をきっかけに探検家や商人がハワイに乗り込んできました。

そして1800年代を迎えると世界的な帝国主義の広がりに呼応するようにハワイに進出した国がありました。

それがアメリカです。

西部開拓に着手したアメリカは、次に国を上げて積極的にアジア市場を目指しました。

日本にペリー率いる黒船が来航したのもこの頃です。

当時のアジアはヨーロッパ列強が利権を争う舞台と化していました。

アメリカがハワイ併合を狙った理由

Hong Kong in the 19th century 1800年代、英国、フランス、オランダは陸伝いにアジアへ勢力を拡大していきました。

これに対してアジアを目指すアメリカには目の前に広大な太平洋が広がっています。

アジアに勢力を及ぼすには島々に中継点を築かなければなりません。

その太平洋上の最重要拠点と考えられたのがハワイでした。

ハワイに乗り込んだアメリカ人の多くは、まず広大なさとうきび農園を経営し富を蓄えていきます。

ちょうどこの頃、ハワイに新たな王が即位しました。

第7代ハワイ国王デイヴィッドカラカウアです。

この時、カラカウアは37歳。

彼は幼い頃からアメリカ人の友人に囲まれ西洋式の教育を受けて育ちました。

新しい国王の就任を待ち受けたようにアメリカ人の資本家たちは自国との通商条約の締結を国王に勧めました。

彼らは「ハワイからアメリカへの輸出品にかかる関税を一切免除する事で、さとうきびの輸出が促進されてハワイも潤う」とカラカウアに進言したのです。

カラカウアはこれに応じ、条約に調印する事にしました。
Kalakaua signed the treaty
しかしこれがハワイの運命を大きく変える事になりました。

一方、アメリカ人の資本家たちは輸出で得た利益を次々とハワイの土地購入に充てていました。

その結果、条約締結後わずか15年間でハワイは国土の半分を失う事になりました。

アメリカ人資本家たちはハワイの経済ばかりでなく政治にも進出するようになりました。

国会の議席を獲得し、ついには政府の主要閣僚を務めるに至ります。

さらにこの頃、アメリカ政府は軍人をハワイに派遣してハワイに軍事拠点を置くための視察を極秘に行っていました。

そして彼らが目をつけたのが真珠湾です。

視察団の報告書には「真珠湾は軍艦が停泊できる十分な深さがあり、軍港として重要な価値がある」と書かれています。
Pearl Harbor
経済に始まり、政治、そして軍事へと、アメリカ政府はハワイ王国の主権を侵していきました。

アメリカによるハワイ侵略を打開するため国王は旅立ちを決意

ここでようやくカラカウア国王はアメリカの意図に気付きました。

「アメリカは我が国を占有し、太平洋上の拠点にしようという野心を抱いている」

1881年の1月15日、サタデープラス紙は「ハワイも主権を持つ立派な独立国家のはずだ」と報道しました。

しかし、もはやカラカウア一人の力でアメリカの進出を食い止めることはできません。

その時、打開策を模索するカラカウアが目を向けたのが「アジア」でした。

なぜならアジアの国々もハワイと同様、西洋列強の進出に苦しんでいたからです。

当時の明治天皇紀には「アジア諸国は列強の支配を受けながら互いに孤立を深め無策である。この状況を抜け出すためには各国が一致団結し欧米に対峙する必要がある」と記されています。

カラカウア国王はハワイ・アジア連合の実現に向けて行動を起こす事を決意しました。

1881年1月、ハワイ国王カラカウアは議会に「世界周遊の旅に出たい」と提案したのです。

国王の真の狙いを知らないアメリカ人議員たちは何も知らずに了承しました。

ただし、国王の監視役として2人のアメリカ人の随行が政府から求められました。
Two Americans who accompanied Kalakaua on his world tour.
カラカウアは清・香港・シンガポール・インドなど、10の国を歴訪する計画でした。

その多くが西洋列強に侵されているアジアの国です。

そしてその目的地の最初が日本でした。
MEMO
1800年代、アメリカの東海岸では工業製品の生産が増加していました。
アメリカは工業製品の輸出先として人口の多い清国に注目しました。
太平洋での影響力を拡大した後、本格的にアジアへ進出しようと考えたのです。
それに際して最も注目を浴びたのがハワイです。
ハワイはアメリカの西海岸とアジアの中間点として最も利便性の良い土地でした。

来日したカラカウア国王

ハワイ・アジア連合という壮大な構想を胸に秘めカラカウアは日本を目指していました。

しかしカラカウアの心中は不安に満ちていました。

「日本は果たして私の壮大な計画に同意してくれるのか?」

「そもそも、日本からはるか離れたハワイから来た客を、日本は受け入れてくれるだろうか?」

1881年3月4日、カラカウア一行は日本に到着しました。

カラカウアは恐る恐る船窓から外の様子を覗きました。
Kalakaua Round-the-World Trip Arrives in Japan
するとカラカウアの耳に聞き慣れた吹奏楽のメロディが飛び込んできました。

それはハワイ国歌である「ハワイ・ポノイ」でした。
それまでハワイ国歌を全く知らなかった日本政府はカラカウア国王を歓迎するため急遽楽譜を取り寄せて準備していたのです。

カラカウアがこの旅の行動を実際に記録した日記がハワイの博物館に残されています。

彼の日記には日本に到着した時の様子が書き記されています。

「港では人々が心からの歓迎の声をあげてくれた。」
When Kalakaua came to Japan, he was welcomed by the Japanese.
そしてカラカウアは明治天皇から連日豪華な式典に招待されました。

ここでもカラカウアは日本側の細かい心遣いに驚きました。

「テーブルにはALOHAの文字をかたどった花飾りが置かれていた。この歓迎ぶりに私は思わず「なんと美しい!」と声を上げた。」
Kalakaua was invited to a lavish ceremony by the Emperor Meiji
カラカウアの日本での接待を取り仕切ったのは外務卿・井上馨です。

ペリーの日本来航後、日本は欧米列強に次々と不平等条約を結ばされていました。

在留外国人の裁判権や関税自主権を奪われた条約を改正する事は日本の最優先課題でした。

井上馨はこれらの事情を踏まえた上でカラカウアの対応に当たりました。

カラカウアの来日から4日後の3月8日、井上は日比谷での陸軍観兵式にカラカウアを招待しました。

この時彼の前に整列した兵の総勢は1万人です。
Kalakaua's Visit to Japan
ハワイではわずか500人の常備兵しか持たないカラカウアにとって初めて目にする大群でした。

カラカウアの日記にはこう書かれています。

「とにかく素晴らしいパレードだ。大変整然たる行進で、まるで時計の様に正確である。」

さらに2日後、井上は小石川の兵器工場にカラカウアを案内しました。
Kalakaua's Visit to Japan
日本側は最新鋭の銃を並べ試作品のテストまで披露しました。

カラカウアは自国で精巧な兵器を生産できる日本に感銘しました。

カラカウアの日記には「日本の最新式銃はアメリカ製の銃に似て弾道は低く正確である。」「日本の進歩は実に驚くべきものである。アジア連合を起こすとすればその盟主には天皇陛下がふさわしい」と書かれています。

カラカウアはなんとしてでもも連合計画への日本の賛同を得たいと考えました。

しかし彼が二人のアメリカ人随行員の目をかいくぐって行動するのは困難を極めました。

カラカウア国王と明治天皇による極秘の会見

カラカウアの日本滞在8日目の3月11日、事件が起こりました。

カラカウアが滞在先から姿を消したのです。

随行員は大騒ぎとなりました。

随行員の一人であるアームストロングは日記に「小説のような出来事が起こってしまった」「国王がどこかに行方をくらましてしまったのだ」と書いています。

その頃、カラカウアは通訳を務めていた天皇の侍従一人を連れて赤坂御所に向かっていました。

そして彼は単独で天皇に会見を申し込んだのです。

明治天皇は突然一人で現れたハワイ国王を訝しく思いながらも応じました。

カラカウアはこれまで誰一人打ち明けることがなかった来日の真相を天皇に語り始めました。

この時の記録をカラカウアの日本人通訳が残しています。

「今や欧米列強は利己主義に走りアジア諸国の不利や困難を省みる事をしません。アジアの急務は連合同盟して列強諸国に対峙する事です」

さらにカラカウアは日本にとっての連合の利点を説きます。

「もしこのアジア連合が実現すれば、列強諸国に治外法権撤廃を認めさせる事ができるはずです」

  日本が西欧列強を敵に回しかねない危険な申し出。

しかし日本と同じ境遇に苦しむカラカウアの訴えに明治天皇は真剣に耳を傾けました。

カラカウア国王「どうか協力してアジア諸国連合を結び、陛下にはその盟主となっていただきたい。そうなれば私は陛下を支え、大いに力をお貸します。」

カラカウアは最大の敬意を表しますが明治天皇にとっても即答できる問題ではありませんでした。

そこでカラカウアは明治天皇に1つの提案を持ちかけました。

「私の姪のカイウラニ王女をもらってもらいたい」

カラカウアはハワイの王位継承者であるカイウラニ王女を日本の皇族と縁組させたいと申し出ました。

カイウラニ王女はカラカウア国王のお気に入りの親族であり、ハワイの人々からも高い支持があった人物です。

そのカイウラニ王女をカラカウア国王が「日本に嫁がせたい」と提案したということは、カラカウアにかなりの決意があったという事になります。

Kaiulani

ハワイ・アジア連合を実現させるためには、まずハワイと日本が連合を結ぶ事が先決だと彼は考えたのです。


明治天皇はようやく口を開き「熟慮の上で回答します」とカラカウアに返答しました。

カラカウアと明治天皇の会見を知った外務卿・井上馨は伊藤博文や岩倉具視など日本政府の重臣を集め日本の対応を協議しました。

日本の重臣たちはハワイ・アジア連合はあまりに壮大な計画で慎重な検討を要するとの姿勢を示しました。

しかし、皇族とカイウラニ王女との縁談は前向きに検討することになりました。

両国が連合を作るかどうかはともかく、両国の友好関係を深めることは望ましいという判断でした。

ハワイ・アジア連合計画はカラカウアの中で俄然現実味を帯びてきました。

しかしカラカウアが赤坂御所から滞在先に戻るとアメリカ人随行員はカラカウアに本日の行動を問い詰めました。

そして日本の通訳からカラカウアが天皇と会見していた事実が露呈しました。

アメリカ人随行員のアームストロングは手記においてカラカウアへの不信感を強めました。

「彼が一歩間違えば国際問題に発展しかねない。我々はこの裏切り行為にてこずらされた」

以後、カラカウアに対する監視は一層強まり何の行動も起こせないまま日本での滞在期限を迎えてしまいました。

天皇の会見から11日後の3月22日、カラカウアは回答を得ることなく日本を出国しました。

しかしアジア連合の実現のためカラカウアは、交渉の旅を続けました。

彼が次に目指したのは眠れる獅子と呼ばれる清でした。

西欧列強の過酷な侵略に苦しむ清国にもカラカウアは大きな期待を寄せていました。

カラカウアは最高実力者である西太后との会見を希望します。

しかしカラカウアの随行員であるアメリカ人アームストロングは強硬に反対し、会見は実現しませんでした。

それでも交渉の緒を掴もうとカラカウアはその後も香港、シンガポール、そしてインドなどのアジア諸国を訪問しました。

そして出発から9ヶ月後の10月29日、カラカウアはハワイに帰国。

折しもアジア諸国では欧米の侵略に抗う動きが民衆の間に芽生えていました。

インドでは英国の不当な支配を訴え独立運動が広がりつつありました。

またスマトラ島ではオランダの侵略に対して農民たちが激しいゲリラ戦を繰り広げている最中でした。

そして日本国内でもカラカウアの提案に呼応しアジアと連帯し、欧米列強に抵抗しようと訴える声が高まっていました。

近時評論「今はアジア全州を合従して欧米の圧力から日本を防御する時である」

こうしたアジア各地の動きの中でカラカウアはハワイを守るために必死の外交努力を続けました。

明治天皇からカラカウア国王への回答

1882年3月22日、明治天皇の回答書がカラカウアの元へ届きました。
明治天皇からカラカウアへの回答書

会見から一年、カラカウアが待ち受けていた書簡です。

明治天皇がカラカウアに宛てた回答書はハワイのホノルル公文書館に残されています。

これは14ページにも及ぶ長文の書簡です。

「東洋諸国が互いに協力して欧米列強と対峙することは確かに急務です。
しかしこの問題はあまりに遠大で到底簡単には運びません。
この計画の実現は現段階では不可能であると私は考えます」

明治天皇からカラカウアへの回答書
「(カラカウア)陛下ノ良友 睦仁(明治天皇)より」
明治天皇がカラカウアへ送った親書
明治天皇はカラカウアの申し出を丁重に断りました。

実はハワイ・アジア連合の申し出を受けてから8ヶ月の間、外務卿の井上馨は決断を下せずにいました。

ところが事態が急変しました。

英国を始め、これまで条約改正交渉を一切受け入れなかったヨーロッパ諸国が「条約改正交渉に応じても良い」と日本に伝えてきたのです。

すでにアメリカも「ヨーロッパ諸国が日本との条約を撤廃するなら改正に応じても良い」と日本に伝えていました。

井上は「今なら各国との条約改正ができる」「ハワイの提案を受諾すれば欧米列強の心象を悪くする」と考え、ハワイへの拒否回答を決定したのです。

なおえもん

苦渋の決断

ハワイの日本人移民

明治天皇はカラカウア王の日本・ハワイ同盟という壮大な構想の申し出を断りましたが、カラカウアは侵略された歴史だけを遺したのではありません。

カラカウア王は明治天皇に対し、日本人によるハワイへの移民を求めていました。

これにより1885年にはハワイと日本の合意に基づいて2万5千人の日本人がハワイに移住していたのです。

その後ハワイ王国は消滅してしまいますが、1922年にはハワイの人口における42%が日系人でした。

1985年にはこの日系人の子孫たちが「日本人移民100年」を記念してワイキキにカラカウア像を建立しました。
カラカウア像

なおえもん

カラカウアの手には明治天皇との移民に関する契約書

ハワイ王国の崩壊

話を戻しましょう。

カラカウアは以後も孤独な戦いを続けていました。

天皇から回答が寄せられて2ヶ月後の5月20日、カラカウアは内閣を改造し国王派を首相と蔵相に任命しアメリカ人勢力に対抗しました。

しかし1887年7月7日、アメリカ人勢力は武力行使をちらつかせて国王の議会に対する権利を剥奪しました。

カラカウアは政治的影響力を失いました。

そしてアジア系移民の投票権さえもアメリカ人勢力に奪われてしまいました。

1891年1月20日、ハワイが侵されていくのを目の当たりにしながらカラカウアは病に倒れ、54年の生涯を終えました。

アメリカのハワイ併合に対し、東郷は祝砲を拒否して対抗

その後の1893年1月、カラカウアの妹であるハワイ王国のリリウオカラニ女王が米国との不平等条約を撤廃する動きをみせるとアメリカ人勢力はクーデターを起こしました。

これによりアメリカ政府は戦艦ボストンをホノルルに派遣する事を決定。

この事態を受けて大日本帝国も邦人保護を理由に巡洋艦「浪速」コルベット級「金剛」の2隻をハワイに派遣することを決定。

巡洋艦「浪速」の艦長は東郷平八郎であり、後の1905年には日露戦争において日本海海戦を指揮した世界的な名提督です。

その東郷が率いる大日本帝国海軍は、ホノルル軍港に停泊しアメリカ海軍の戦艦ボストンを挟んでクーデター勢力を威嚇しました。
巡洋艦なにわ
大日本帝国海軍はリリウオカラニ女王の側近と接触していることからハワイ王国の要請を受けていたという見方もあります。

ともあれハワイ王国のリリウオカラニ女王を支持するハワイ先住民らは涙を流して歓喜しました。

また、ハワイの在留日本人も女王支持派に同情的でした。

巡洋艦「浪速」は3ヶ月間ハワイに留まった後、いったん帰国し、一年後に再び姿を現しました。
巡洋艦なにわが戦艦ボストンを威嚇
この時、ハワイ共和国の初代大統領に就いたアメリカ人であるサンフォード・ドールから「建国一周年」を祝う礼砲を要求されました。

しかし東郷平八郎はこれを拒否。米国によるハワイ侵略を牽制したのです。

ハワイ王国:日米火花 7000点外交文書、19世紀・共和国に 東郷、祝砲を拒否 | 毎日新聞

 19世紀に独立国だったハワイ(現・米国ハワイ州)と日本との外交関係を記録した文書が同州立文書館(ホノルル)に大量に保管されていることが分かり、東京大史料編纂(へんさん)所が本格調査に乗り出した。米国による併合から逃れて独立を保つために日本を利用しようとするハワイと、米国をけん制する新興の近代国家日

公開期限が終了したようなので魚拓を置いておきます↓
http://web.archive.org/web/20211101104126/https://mainichi.jp/articles/20170717/ddm/001/030/223000c

アメリカはその後も太平洋戦略を押し進め、1898年にはフィリピンとグアムが占領されました。

そして同年の8月12日、ハワイ王国の国旗が下ろされ、アメリカの国旗が掲げられました。
ハワイ王国の議事堂
ハワイはアメリカの太平洋戦略に飲み込まれてしまったのです。

そして翌年の1899年には23歳という若さでカイウラニ王女までもがこの世を去ります。

なおえもん

初代ハワイ大統領のいとこジェームズ・ドールはあの「Dole」創業者

ハワイを破壊したアメリカ

ハワイが米国に乗っ取られる以前より、ハワイでは独特の文化であるフラ(フラダンスに代表される)を「野蛮だ」という理由でキリスト教の宣教師に禁止されていました。

カラカウアはハワイ文化を残すべく伝承を集めて書籍にしました。彼は「フラ」復活の立役者としても有名でした。

カラカウア亡き後、ハワイを乗っ取った米国はハワイの生活様式を深く広く破壊し始めました。

学校ではハワイ語が禁止されました。

また政府や企業も法律によりハワイ語の使用が禁止され、政府や企業は英語で運営することが法律で定められました。

アメリカ人たちは土地の開発を始め、しばしば神聖な場所を占領しました。

そして、歴史そのものが検閲され、あたかもハワイ王国の国民が戦わずにアメリカを歓迎したかのように見せるために歴史そのものが検閲されたそうです。

ハワイにおける歴史の多くは、ハワイ語でしか記録されていません。

ハワイ語の禁止と検閲によって本当のハワイの歴史にはアクセスできなくなってしまいました。

こうして見てみると、アメリカが日本に行った占領政策と全く同じではないでしょうか。

日本もアメリカによって歴史の検閲が行われました。

米国にとって都合のいい歴史だけが認められました。

敗戦後、日本は米国によって日本語の使用も禁止される寸前でしたが、こうしてみると米国の常套手段である事がよくわかります。

また、アメリカによるハワイの強制併合後、ハワイの経済はアメリカとの貿易に依存するようになりました。

当時、砂糖やパイナップルなどの農産物が主な輸出品でしたがアメリカ人や外国人の大企業がハワイの土地や資源を支配し、ハワイの人々は労働者として雇われるか、貧困に陥るかの二択に迫られました。

ハワイはアメリカの準州となり、アメリカの法律や政治制度に従うことになりました。

ハワイの人々はアメリカの市民権を得ましたが、選挙権や議会への代表権はありませんでした。

日米の覇権争いが始まる

アメリカによるハワイの併合後、日本とアメリカは太平洋での覇権を争うライバルとなりました。

アメリカはハワイを自分たちの植民地とみなし、日本人移民の制限や差別を行いました。

日本はハワイの併合を不当なものとみなし、アメリカに抗議しました。

1907年には日米紳士協定が結ばれ、日本はハワイへの移民を停止する代わりに、アメリカは在留日本人の権利を保障することに同意しました。

ハワイ王国とアメリカの戦いは今も続いている

アメリカによるハワイ侵略から100年が経過した1993年、ハワイ州議会はアメリカ政府がハワイ諸島転覆に関与したことをハワイ市民に謝罪し、”ハワイ先住民は、その固有の主権に対する主張を直接アメリカに放棄したことはない”と認めました。
つまりハワイ王国は国際法上では現在も独立した国家であるそうです。

この事から「世界で最も長く続いている戦争は、ハワイ王国VSアメリカ合衆国」なんだとか。

国際法上、アメリカはハワイを不法占拠している状態を続けているという事であり、米国もある程度はその主張を認めているということなのかもしれません。

現在でもハワイ先住民族は米国政府に対して様々な抗議を行っているようです。 「私たちはアメリカ人ではありません。私たちは(ネイティブ)ハワイアンとして死ぬでしょう、私たちは決してアメリカ人ではありません。アメリカ人は私たちの敵であることを理解してください。彼らは私たちの土地を奪いました。彼らは私たちの女王を投獄しました。彼らは私たちの言語を禁止しました。彼らは私たちの土地を強制的に米国の植民地にしました。アメリカは民主主義だというが、それは嘘です。彼らは決して先住民に対して民主主義であったことはありません。アメリカ合衆国は世界で最も強力な帝国主義国である。彼らは国連を支配している。彼らは太平洋を支配している。アメリカの原子力潜水艦が太平洋を循環している。アメリカ合衆国は死の国であり、先住民に死を与えるものである。アメリカ合衆国と戦う唯一の方法は、政治的な戦いです。」 1993年1月17日、ハウナニ・ケイ・トラスク演説 -Haunani Kay Trask speech, Jan 17, 1993

おわりに

この記事では、ハワイ王国の歴史について紹介しました。

ハワイ王国は、1795年から1893年までハワイ諸島に存在した王国であり、ポリネシア人の移住や西洋との交流によって独自の文化を形成しました。

また、立憲君主制を採用し、外交や経済で列強と渡り合いましたが、アメリカの移民や利権者によるクーデターや併合運動によって滅亡しました。

ハワイ王国の併合は、アメリカのアジア侵略の一環とも見なすことができます。

アメリカは19世紀後半から20世紀前半にかけて、太平洋やカリブ海において多くの島々を植民地化しました。

例えば、グアム、フィリピン、プエルトリコ、キューバなどです。

これらの島々は、アメリカの軍事的・経済的・政治的な利益に重要な役割を果たしました。

しかし、これらの島々の住民は、アメリカからの差別や抑圧を受けることも多くありました。

ハワイ王国の歴史は、植民地主義や帝国主義の影響を受けた多くの国や地域の歴史と共通点があります。

また、ハワイ王国の歴史は、ハワイの現在の政治や社会や文化にも深く関わっています。

そのため、ハワイへ旅行する人やハワイに興味を持つ人にとっても知っておくべきことだと思います。

この記事を読んで、あなたはどう感じましたか?

あなたはハワイ王国の歴史について何か新しい発見や学びがありましたか?

あなたはこれからもっとハワイ王国の歴史について知りたいと思いますか?

ぜひ、コメント欄で教えてください。

また、この記事が気に入ったらシェアしてください。ありがとうございました。
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2 COMMENTS

まりも

マウイ島の火事で、ハワイのことが知りたいと思うようになりこちらの記事を拝見しました。日本とこんなに縁のある島だったんですね。
クリントン政権が、「100年前に力づくで併合したことを認め謝罪した」とのことですが、「力づくで奪ったもの」だと認めるならそれを返してもらえなければ言葉だけで謝られても意味を感じないなと思いました。日本が協力していたら、、その後世界はどうなっていたんでしょうね。
先住民の生活や文化を、勝手に侵略した野蛮な人に野蛮だと言われたくないですね、、なんて身勝手な。色々考えさせられる記事をありがとうございました。

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なおえもん

訪問ありがとうございます。
そうなんです、本来ならばアメリカによるハワイ乗っ取りの件は日本の教科書に記載するべきです。
しかしGHQはアメリカを批判する様な事を報道することも教科書に書くことも禁止しました。
日本の中では「抹殺された歴史」ですね。
第一次大戦後の1919年にパリ講和会議で日本は人種平等を訴えましたが、植民地を増やすことしか考えていないアメリカは却下しました。
仮に日本がハワイを一時的に守れていたとしても結局は衝突する羽目になったのかなと思ったり、運命というのはわからないですね。

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