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アメリカの侵略を受けたハワイ。国王のカラカウアは助けを求め日本へ。

west

なおえもん

まいど、なおえもんやで

ハワイ国王のアジア連合計画

カラカウア あなたはハワイ国王であるデイビッド・カラカウアを知っていますか?

かつてハワイが王国だった時代、ハワイの支配を目論むアメリカに毅然と戦いを挑んだ人物です。

帝国主義が広がりつつあった1800年代、アメリカは太平洋の制海権を徐々に広げアジア進出を目論んでいました。

その拠点に据えようとアメリカが狙ったのがハワイです。

ハワイではアメリカ人が経済と政治を牛耳るようになり軍事拠点が置かれました。

アメリカの巧みな戦略によってハワイは蹂躙されていきました。

「このままではハワイはアメリカに飲み込まれてしまう」

しかし大国のアメリカ相手にハワイが敵うはずがありません。

そこでカラカウアは壮大な構想を打ち立てます。

「ハワイは欧米列強の侵略に苦しむアジア諸国と連帯し列強に立ち向かうべきだ」

これが彼が構想したハワイ・アジア連合計画です。

構想実現に向けて自らアジア各国と交渉しようとカラカウアはハワイを旅立ちました。

カラカウアが最も期待を寄せたのは欧米列強との不平等条約の改正に苦慮する日本でした。

来日したカラカウアは日本の明治天皇に会見を求め連合への協力を訴えました。

カラカウアは日本にハワイアジア連合の盟主として欧米列強に対抗する事を期待していました。

さらにカラカウアはハワイの王女と日本の皇族との縁組まで持ちかけたのです。

不平等条約の改正に解決の糸口がつかめない日本は決断を迫られました。

日本はこのまま欧米列強と果てしなき交渉を続けるのか?

それともハワイアジア連合に突き進むべきなのか?

まさにそれは歴史の転換点でした。

迫りくるハワイ王国の危機

ハワイ
太平洋に浮かぶハワイ諸島。

現在アメリカ50番目の州であるハワイは高層ホテルが立ち並ぶ世界で最も知られたリゾート地です。

このハワイがかつて大海原の中で隔絶されていた頃、独自の文化が育まれていました。

人々は自然の神を崇拝し、海や山の豊かな恵みを日々の糧としていたのです。

しかしハワイは18世紀後半、欧米列強における太平洋進出の波に曝されました。

英国人クックのハワイ来航をきっかけに探検家や商人がハワイに乗り込んできました。

そして19世紀を迎えると世界での帝国主義の広がりと呼応するようにハワイに進出した国がありました。

それがアメリカです。

西部開拓に着手したアメリカは、次に国を上げて積極的にアジア市場を目指しました。

日本にペリー率いる黒船が来航したのもこの頃です。

当時アジアはヨーロッパ列強が利権を争う舞台と化していました。

アメリカによるハワイ侵略計画

Hong Kong in the 19th century 19世紀、英国、フランス、オランダは陸伝いにアジアへ勢力を拡大していきました。

これに対してアジアを目指すアメリカには目の前に広大な太平洋が広がっています。

アジアに勢力を及ぼすには島々に中継点を築いていかなければなりません。

その太平洋上の最重要拠点と考えられたのがハワイでした。

ハワイに乗り込んだアメリカ人の多くは、まず広大なさとうきび農園を経営し富を蓄えていきます。

ちょうどこの頃、ハワイに新たな王が即位しました。

第7代ハワイ国王デイヴィッドカラカウアです。

この時、カラカウアは37歳。

幼い頃からアメリカ人の友人に囲まれ西洋式の教育を受けて育ちました。

新しい国王の就任を待ち受けたようにハワイに渡ったアメリカの資本家たちは自国との通商条約の締結を勧めます。

彼らは「ハワイからアメリカへの輸出品にかかる関税を一切免除する事でさとうきびの輸出が促進されハワイも潤う」とカラカウアに進言しました。

カラカウアは条約に調印しました。
Kalakaua signed the treaty
しかし、これがハワイの運命を大きく変えることになったのです。

アメリカ人の資本家たちは輸出で得た利益を次々と土地の購入に充てました。

条約締結後、わずか15年間でハワイは国土の半分を失いました。

資本家はハワイの経済ばかりでなく政治にも進出しました。

国会の議席を獲得し、ついには政府の主要閣僚を務めるに至ります。

さらにこの頃、アメリカ政府は軍人をハワイに派遣してハワイに軍事拠点を置くための視察を極秘に行っていました。

そして彼らが目をつけたのが真珠湾です。

視察団の報告書には「真珠湾は軍艦が停泊できる十分な深さがあり、軍港として重要な価値がある」と書かれています。
Pearl Harbor
経済に始まり、政治、そして軍事へと、アメリカ政府はハワイ王国の主権を侵していきました。

ここでようやくカラカウアはアメリカの意図に気付きました。

「アメリカは我が国を占有し、太平洋上の拠点にしようという野心を抱いている」

1881年の1月15日、サタデープラス紙は「ハワイも主権を持つ立派な独立国家のはずだ」と報道しました。

しかし、もはやカラカウア一人の力でアメリカの進出を食い止めることはできません。

その時、打開策を模索するカラカウアが目を向けたのが「アジア」でした。

なぜならアジアの国々もハワイと同様、西洋列強の進出に苦しんでいたからです。

当時の明治天皇紀には「アジア諸国は列強の支配を受けながら互いに孤立を深め無策である。この状況を抜け出すためには各国が一致団結し欧米に対峙する必要がある」と記されています。

カラカウア国王はハワイ・アジア連合の実現に向けて行動を起こしました。

1881年1月、ハワイ国王カラカウアは議会に「世界周遊の旅に出たい」と提案しました。

国王の真の狙いを知らないアメリカ人議員たちは了承しました。

ただし、国王の監視役として2人のアメリカ人の随行が政府から求められました。
Two Americans who accompanied Kalakaua on his world tour.
カラカウアは清・香港・シンガポール・インドなど、10の国を歴訪する計画でした。

その多くが西洋列強に侵されているアジアの国です。

そしてその目的地の最初が日本でした。
MEMO
19世紀、アメリカの東海岸では工業製品の生産が増加していました。
アメリカは工業製品の輸出先として人口の多い清に注目しました。
太平洋での影響力を拡大した後にアジアへ進出するべきと考えたのです。
その時に最も注目を浴びたのがハワイです。
ハワイはアメリカの西海岸とアジアの中間点として最も利便性の良い土地でした。

来日したカラカウア国王

ハワイ・アジア連合という壮大な構想を胸に秘めカラカウアは日本を目指していました。

しかしカラカウアの心中は不安に満ちていました。

「日本は果たして私の壮大な計画に同意してくれるのか?」

「そもそも、日本からはるか離れた国の客を、日本は受け入れてくれるだろうか?」

1881年3月4日、カラカウア一行は日本に到着しました。

カラカウアは恐る恐る船窓から外の様子を覗きました。
Kalakaua Round-the-World Trip Arrives in Japan
するとカラカウアの耳に聞き慣れたメロディが飛び込んできました。

それはハワイ国歌である「ハワイ・ポノイ」でした。
それまでハワイの国歌を全く知らなかった日本政府は国王を歓迎するため急遽楽譜を取り寄せて準備していたのです。

カラカウアがこの旅の行動を実際に記録した日記がハワイの博物館に残されています。

彼の日記には日本に到着した時の様子が書き記されています。

「港では人々が心からの歓迎の声をあげてくれた。」
When Kalakaua came to Japan, he was welcomed by the Japanese.
カラカウアは明治天皇から連日豪華な式典に招待されました。

ここでもカラカウアは日本側の細かい心遣いに驚きました。

彼の日記にはこう書かれています。

「テーブルにはALOHAの文字をかたどった花飾りが置かれていた。この歓迎ぶりに私は思わず「なんと美しい!」と声を上げた。」
Kalakaua was invited to a lavish ceremony by the Emperor Meiji
カラカウアの日本での接待を取り仕切ったのは外務卿・井上馨です。

ペリーの日本来航後、日本は欧米列強に次々と不平等条約を結ばされていました。

在留外国人の裁判権や関税自主権を奪われた条約を改正する事は日本の最優先課題でした。

井上馨はこれらの事情を踏まえた上でカラカウアの対応に当たりました。

カラカウアの来日から4日後の3月8日、井上は日比谷での陸軍観兵式にカラカウアを招待しました。

この時彼の前に整列した兵の総勢は1万人です。
Kalakaua's Visit to Japan
ハワイではわずか500人の常備兵しか持たないカラカウアにとって初めて目にする大群でした。

カラカウアの日記にはこう書かれています。

「とにかく素晴らしいパレードだ。大変整然たる行進で、まるで時計の様に正確である。」

さらに2日後、井上は小石川の兵器工場にカラカウアを案内しました。
Kalakaua's Visit to Japan
日本側は最新鋭の銃を並べ試作品のテストまで披露しました。

カラカウアは自国で精巧な兵器を生産できる日本に感銘しました。

カラカウアの日記には「日本の最新式銃はアメリカ製の銃に似て弾道は低く正確である。」「日本の進歩は実に驚くべきものである。アジア連合を起こすとすればその盟主には天皇陛下がふさわしい」と書かれています。

カラカウアはなんとしてでもも連合計画への日本の賛同を得たいと考えました。

しかし彼が二人のアメリカ人随行員の目をかいくぐって行動するのは困難を極めました。

カラカウア国王と明治天皇による極秘の会見

カラカウアの日本滞在8日目の3月11日、事件が起こりました。

カラカウアが滞在先から姿を消したのです。

随行員は大騒ぎとなりました。

随行員の一人であるアームストロングは日記に「小説のような出来事が起こってしまった」「国王がどこかに行方をくらましてしまったのだ」と書いています。

その頃、カラカウアは通訳を務めていた天皇の侍従一人を連れて赤坂御所に向かっていました。

そして彼は単独で天皇に会見を申し込んだのです。

明治天皇は突然一人で現れたハワイ国王を訝しく思いながらも応じました。

この時の記録をカラカウアの日本人通訳が残しています。

カラカウアはこれまで誰一人打ち明けることがなかった来日の真相を天皇に語り始めました。

「今や欧米列強は利己主義に走りアジア諸国の不利や困難を省みる事をしません。アジアの急務は連合同盟して列強諸国に対峙する事です」

さらにカラカウアは日本にとっての連合の利点を説きます。

「もしこのアジア連合が実現すれば、列強諸国に治外法権撤廃を認めさせる事ができるはずです」

  日本が西欧列強を敵に回しかねない危険な申し出。

しかし日本と同じ境遇に苦しむカラカウアの訴えに明治天皇は真剣に耳を傾けました。

カラカウア国王「どうか協力してアジア諸国連合を結び、陛下にはその盟主となっていただきたい。そうなれば私は陛下を支え、大いに力をお貸します。」

カラカウアは最大の敬意を表しますが明治天皇にとっても即答できる問題ではありませんでした。

そこでカラカウアは明治天皇に1つの提案を持ちかけました。

「私の姪のカイウラニ王女をもらってもらいたい」

カラカウアはハワイの王位継承者であるカイウラニ王女を日本の皇族と縁組させたいと申し出ました。

カイウラニ王女はカラカウア国王のお気に入りの親族であり、ハワイの人々からも高い支持があった人物です。

そのカイウラニ王女をカラカウア国王が「日本に嫁がせたい」と提案したということは、カラカウアにかなりの決意があったという事になります。

Kaiulani

まずハワイと日本が連合を結ぶことが彼の狙いだったのです。

明治天皇はようやく口を開き「熟慮の上で回答します」と回答した。

カラカウアと明治天皇の会見を知った外務卿・井上馨は伊藤博文や岩倉具視など日本政府の重臣を集め日本の対応を協議しました。

日本の重臣たちはハワイ・アジア連合はあまりに壮大な計画で慎重な検討を要するとの姿勢を示しました。

しかし、皇族とカイウラニ王女との縁談は前向きに検討することになりました。

両国が連合を作るかどうかはともかく、両国の友好関係を深めることは望ましいという判断でした。

ハワイ・アジア連合計画はカラカウアの中で俄然現実味を帯びてきました。

しかしカラカウアが赤坂御所から滞在先に戻るとアメリカ人随行員はカラカウアに本日の行動を問い詰めました。

そして日本の通訳からカラカウアが天皇と会見していた事実が露呈しました。

アメリカ人随行員のアームストロングは手記においてカラカウアへの不信感を強めました。

「彼が一歩間違えば国際問題に発展しかねない。我々はこの裏切り行為にてこずらされた」

以後、カラカウアに対する監視は一層強まり何の行動も起こせないまま日本での滞在期限を迎えてしまいました。

天皇の会見から11日後の3月22日、カラカウアは回答を得ることなく日本を出国しました。

しかしアジア連合の実現のためカラカウアは、交渉の旅を続けました。

彼が次に目指したのは眠れる獅子と呼ばれる清でした。

西欧列強の過酷な侵略に苦しむ清国にもカラカウアは大きな期待を寄せていました。

カラカウアは最高実力者である西太后との会見を希望します。

しかしカラカウアの随行員であるアメリカ人アームストロングは強硬に反対し、会見は実現しませんでした。

それでも交渉の緒を掴もうとカラカウアはその後も香港、シンガポール、そしてインドなどのアジア諸国を訪問しました。

そして出発から9ヶ月後の10月29日、カラカウアはハワイに帰国。

折しもアジア諸国では欧米の侵略に抗う動きが民衆の間に芽生えていました。

インドでは英国の不当な支配を訴え独立運動が広がりつつありました。

またスマトラ島ではオランダの侵略に対して農民たちが激しいゲリラ戦を繰り広げている最中でした。

そして日本国内でもカラカウアの提案に呼応しアジアと連帯し、欧米列強に抵抗しようと訴える声が高まっていました。

近時評論「今はアジア全州を合従して欧米の圧力から日本を防御する時である」

こうしたアジア各地の動きの中でカラカウアはハワイを守るために必死の外交努力を続けました。

明治天皇からカラカウア国王への回答

1882年3月22日、明治天皇の回答書がカラカウアの元へ届きました。
明治天皇からカラカウアへの回答書

会見から一年、カラカウアが待ち受けていた書簡です。

明治天皇がカラカウアに宛てた回答書はハワイのホノルル公文書館に残されています。

これは14ページにも及ぶ長文の書簡です。

「東洋諸国が互いに協力して欧米列強と対峙することは確かに急務です。
しかしこの問題はあまりに遠大で到底簡単には運びません。
この計画の実現は現段階では不可能であると私は考えます」

明治天皇からカラカウアへの回答書
「(カラカウア)陛下ノ良友 睦仁(明治天皇)より」
明治天皇がカラカウアへ送った親書
明治天皇はカラカウアの申し出を丁重に断りました。

実はハワイ・アジア連合の申し出を受けてから8ヶ月の間、外務卿の井上馨は決断を下せずにいました。

ところが事態が急変しました。

英国を始め、これまで条約改正交渉を一切受け入れなかったヨーロッパ諸国が「条約改正交渉に応じても良い」と日本に伝えてきたのです。

すでにアメリカも「ヨーロッパ諸国が日本との条約を撤廃するなら改正に応じても良い」と日本に伝えていました。

井上は「今なら各国との条約改正ができる」「ハワイの提案を受諾すれば欧米列強の心象を悪くする」と考え、ハワイへの拒否回答を決定したのです。

なおえもん

苦渋の決断

ハワイの日本人移民

明治天皇はカラカウア王の日本・ハワイ同盟という壮大な構想の申し出を断りましたが、カラカウアが残したものはそれだけではありません。

カラカウア王は明治天皇に対し、日本人によるハワイへの移民を求めていました。

これにより1885年にはハワイと日本の合意に基づいて2万5千人の日本人がハワイに移住していたのです。

その後ハワイ王国は消滅してしまいますが、1922年にはハワイの人口における42%が日系人でした。

1985年にはこの日系人の子孫たちが「日本人移民100年」を記念してワイキキにカラカウア像を建立しました。
カラカウア像

なおえもん

カラカウアの手には明治天皇との移民に関する契約書

ハワイ王国の崩壊

それでもカラカウアは孤独な戦いを続けていました。

天皇から回答が寄せられて2ヶ月後の5月20日、カラカウアは内閣を改造し国王派を首相と蔵相に任命しアメリカ人勢力に対抗しました。

しかし1887年7月7日、アメリカ人勢力は武力行使をちらつかせて国王の議会に対する権利を剥奪しました。

カラカウアは政治的影響力を失いました。

そしてアジア系移民の投票権さえもアメリカ人勢力に奪われてしまいました。

1891年1月20日、ハワイが侵されていくのを目の当たりにしながらカラカウアは病に倒れ、54年の生涯を終えました。

アメリカのハワイ併合に対し、東郷は祝砲を拒否して対抗

その後の1893年1月、カラカウアの妹であるハワイ王国のリリウオカラニ女王が米国との不平等条約を撤廃する動きをみせるとアメリカ人勢力はクーデターを起こしました。

これによりアメリカ政府は戦艦ボストンをホノルルに派遣する事を決定。

この事態を受けて大日本帝国も邦人保護を理由に巡洋艦「浪速」コルベット級「金剛」の2隻をハワイに派遣することを決定。

巡洋艦「浪速」の艦長は東郷平八郎であり、後の1905年には日露戦争において日本海海戦を指揮した世界的な名提督です。

その東郷が率いる大日本帝国海軍は、ホノルル軍港に停泊しアメリカ海軍の戦艦ボストンを挟んでクーデター勢力を威嚇しました。
巡洋艦なにわ
大日本帝国海軍はリリウオカラニ女王の側近と接触していることからハワイ王国の要請を受けていたという見方もあります。

ともあれハワイ王国のリリウオカラニ女王を支持するハワイ先住民らは涙を流して歓喜しました。

また、ハワイの在留日本人も女王支持派に同情的でした。

巡洋艦「浪速」は3ヶ月間ハワイに留まった後、いったん帰国し、一年後に再び姿を現しました。
巡洋艦なにわが戦艦ボストンを威嚇
この時、ハワイ共和国の初代大統領に就いたアメリカ人であるサンフォード・ドールから「建国一周年」を祝う礼砲を要求されました。

しかし東郷平八郎はこれを拒否。米国によるハワイ侵略を牽制したのです。

ハワイ王国:日米火花 7000点外交文書、19世紀・共和国に 東郷、祝砲を拒否 | 毎日新聞

 19世紀に独立国だったハワイ(現・米国ハワイ州)と日本との外交関係を記録した文書が同州立文書館(ホノルル)に大量に保管されていることが分かり、東京大史料編纂(へんさん)所が本格調査に乗り出した。米国による併合から逃れて独立を保つために日本を利用しようとするハワイと、米国をけん制する新興の近代国家日

アメリカはその後も太平洋戦略を押し進め、1898年にはフィリピンとグアムが占領されました。

そして同年の8月12日、ハワイ王国の国旗が下ろされ、アメリカの国旗が掲げられました。
ハワイ王国の議事堂
ハワイはアメリカの太平洋戦略に飲み込まれてしまったのです。

そして翌年の1899年には23歳という若さでカイウラニ王女までもがこの世を去ります。

なおえもん

いとこのジェームズ・ドールはあの「Dole」創業者

ハワイの文化を破壊したアメリカ

米国によるハワイの占領前から、ハワイではフラダンスに代表されるハワイ独特の文化であるフラを「野蛮だ」という理由でキリスト教宣教師に禁止されていました。

カラカウアはハワイ文化の伝承を集めて書籍にしたりもしていますし「フラ」復活の立役者としても有名でした。

カラカウア亡き後、ハワイを乗っ取った米国はハワイの生活様式を深く広く破壊し始めました。

学校ではハワイ語が禁止されました。

また政府や企業も法律によりハワイ語の使用が禁止され、政府や企業は英語で運営することが法律で定められました。

アメリカは土地の開発を始め、しばしば神聖な場所を占領しました。

そして、歴史そのものが検閲され、あたかもハワイ王国の国民が戦わずにアメリカを歓迎したかのように見せるために歴史そのものが検閲されました。

ハワイの歴史の多くは、ハワイ語でしか記録されていません。

この検閲によって本当のハワイの歴史にはアクセスできなくなってしまいました。

また禁止されたハワイ語も死語になりつつありました。

こうして見てみると、アメリカが日本に行った占領政策と全く同じです。

日本もアメリカによって歴史の検閲が行われました。

日本語の使用も禁止される寸前でしたが何とか免れたに過ぎません。

ハワイ王国とアメリカの戦いは今も続いている

アメリカによるハワイ侵略から100年が経過した1993年、クリントン大統領は謝罪をしました。

何に対しての謝罪かというと「100年前にアメリカ海軍が議会の承認なしに力づくでハワイを併合した」事に対してです。

ハワイ王国は国際法上では現在も独立した国家であるそうです。

この事から「世界で最も長く続いている戦争は、ハワイ王国VSアメリカ合衆国」と言われています。

国際法上、アメリカはハワイを不法占拠している状態を続けているという事であり、米国もある程度はその主張を認めているものと思われます。

現在でもハワイ先住民族は様々な抗議を行っているようで、今後どうなっていくのか注目です。
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