
なおえもん
まいど, なおえもんやで
母のまぶたがパックリと割れ、中から白い皮下組織が覗いていた。
あの光景と母の泣き崩れる姿。
37年が過ぎた今も昨日のことのように蘇り、胸を深く抉られる。
なぜ誰にでも優しい母が、毒親である父によってあんな目に遭わされなければならなかったのか。
事件が起きたのは、1990年のこと。
当時11歳だった私には、ただ震えて見ていることしかできなかった。
あの日以来、私の心から恐怖が消え去る事はなかった。
いつまた、あの地獄が繰り返されるのか。
その怯えを抱えたままの不安な生活は、その後長きにわたって続いていくことになる。
今でも決して許すことができない、あの日の忌まわしい父による暴行事件を、ここに書き記しておこうと思う。
父が母を殴り飛ばした日
当時、小学5年生だった私は、父の妹夫婦が経営するアパートの上下2室を間借りして暮らしていた。1階は、タクシー運転手として24時間勤務を終え、明け方に帰宅した父が眠るための部屋。
2階は、私や母、妹が食事をしたり風呂に入ったりして過ごす生活の場。
そうやって「父の睡眠」を邪魔しないよう、物理的に距離を置いて、毒親である父を刺激しないよう細心の注意を払って暮らしていた。
母は普段から、下の階で眠る父を叩き起こさないよう、妹に「お願いだから静かにして!」と縋るように懇願するのが日課だった。
だが、4歳の妹はその恐怖を、母を意のままに動かすための「スイッチ」として利用していた。
妹は気に入らないことがあれば、わざと1階まで届くような絶叫を上げ、父という暴力の恐怖を母に向けさせる。
この時すでに、我が家には「妹が叫び、父が殴る」という、母を追い詰めるための逃げ場のないシステムが完成されようとしていたのだ。
同時に、母は妹に弱みを握られ、逃げ場のない支配へと引きずり込まれ始めていた。
1階で寝ている父にとって、その絶叫は眠りを妨げる腹立たしい騒音。そして、母を攻撃するための絶好の「口実」でもあった。
あの日も、耳を突き刺すような妹の絶叫が、部屋に響き渡った。
案の定、その直後に一階から激しい父の怒鳴り声が聞こえ始めた。
そして「ドタドタドタッ」父が階段を駆け上がってくる不吉な足音が聞こえた。
「ほら来たやんか!」母は恐怖と絶望におののき始めた。私もすぐに状況を理解し、全身が凍りついた。
そして父が2階の部屋に入ってきた。
「静かにさせんかい!!!!!」
怒鳴り声と同時に、父の拳が母に向かって振り抜かれた。
母は殴り飛ばされた勢いで、そばにあった妹の幼児用の鉄製椅子の鋭利な角に顔面を強打した。
自己愛性人格障害である父には、自分が加害者だという意識など微塵もない。
むしろ「せっかく寝ているのに起こされた自分こそが被害者だ」という凄まじい認知の歪みを持っていた。
父は自分が被害者であり「殴り返してやった」ぐらいの感覚で母を殴り飛ばし、平然と階下の部屋へ去っていった。
父が去った後、母はタンスの引き出しに崩れ落ちるように寄りかかり、大声を上げて「うわあぁぁああああ!」と号泣し始めた。
その母の姿を後ろから見ているしかなかった11歳の私の心は、もう張り裂けそうだった。
しばらく号泣した後、母はやっと顏をあげた。
母のまぶたはパックリと割れ、中から白い皮下組織が覗いていた。
私は「まぶたが割れてる!早く病院行って!!」
私は泣きそうになりながら言ったが、母は「わかった」とは言ってくれない。
私は母に「お願いだから病院に行って!!」と必死で懇願する事しかできなかった。
37年経った今でも、当時の光景が鮮明にフラッシュバックし、胸が締め付けられる。

なおえもん
父は一生消えない心の傷を私たちに残した
DV被害による母の負傷と隣町への逃避行
その後、母は私と妹の手を引き、家を出た。どこへ行くのか?病院に行こうとしてる様子ではなかった。
深い沈黙を守りながらある事数十分。着いたのは最寄りの駅だった。
そして電車に揺られて20分、あてもなく辿り着いたのは姫路の街だった。
まぶたが深く割れたままの母に連れられ、駅前のダイエーなどを彷徨った。
道行く人が、異様な傷を負った母を見ては通り過ぎていく。
最愛の優しい母が死んでしまうのではないかという恐怖。
そして「今日からどうしたらいいんだ!」という絶望と苦悩と不安が、11歳の心を支配していた。
すれ違う見知らぬ大人たちの顔を見ながら、私は何度も、その袖を掴んで呼び止めたい衝動に駆られた。
「母が父に殺されかけたんです。助けてください!」と。
社会の仕組みなど何も知らない11歳の子供なりに、私はその足りない頭を振り絞って、母を守る事を必死に考えていた。
だが、そんなことを相談できる相手は、この広い街にも、学校にも、どこにもなかった。
私はただ、行き場のない不安と絶望を以後抱え続けるしかなかった。

なおえもん
何もかもが不安で不安で仕方がなかった。
「いいから買い」傷だらけの母に背負わせてしまった十字架
ダイエーを出た後、私たちは姫路の大通りをあてもなく歩いた。行き場もなく、ただただ歩いて時間が過ぎるのを待つしかない中、私たちの目の前にファミコンショップが現れた。
私は何気なく「この店に入っていい?」と母に聞いた。
母の承諾を得て、私たちは店に入る事になった。
本当に、ただソフトを眺めるだけのつもりだった。
ほんの一瞬でも、目の前の地獄から目を逸らしたかっただけなのだ。
母に買わせる気など、毛頭なかった。
しかし、そんな子供のささやかな現実逃避が、結果として母に無理をさせてしまう事に繋がった。
私はその店内で気になるゲームソフトを眺めていた。
すると母は「これ欲しいんか?」と聞いてきた。
私は正直、このソフトは気になっていた。欲しかったのかもしれない。
だが、そんな事をしている場合ではないし、していいわけがない。
そんな事は子供の私でもわかりきっていた。
だから私は「いや…」と言葉を濁した。
母が重傷を負い、病院にも行かずに逃げている状況で、そんなものを買ってほしいと思うはずがない。
母の所持金も僅かだったはずだ。
しかし、母は私に気を遣って優しく再び「買い」と言ってきた。
私は「いや、いらない…」と買ってもらう事を拒否し続けた。
それでも母は「いいから買いっ」と私の背中を押し、結局、私はこのゲームソフトを買ってもらう事になった。
レジで母が財布を開く姿を見ながら、私は胸が張り裂けそうだった。
こんな一大事に、無意味で高額なものを買わせてしまったという強烈な後悔と罪悪感。
そのお金は、母の治療費や父から逃走するための資金にするべきだったのに。
母があの日、なぜ無理をしてまでソフトを買ってくれたのか。
あんな暴力父を選んでしまった母から、子供への精一杯の「詫び」だったのかもしれない。
とにかく母に無事でいて欲しかった。それだけで良かった。
しかし、そんな安全な場所さえ、私たちは手に入れる事ができなかった。

なおえもん
本当にみじめだった。
父の暴力によって私は生きた心地のしない毎日へ
無力な子供だった私は、結局そのまま地獄のような日常へ戻るしかなかった。あの日以来、学校に行くだけで母のことが心配になった。
母が無事であることを祈るしかない、生きた心地のしない毎日へと変わってしまったのだ。
毒親である父は、普段から威圧的で暴力的な男だったからだ。
父が母に対して何をするか分からないという恐怖は、私の精神を消耗させ続け、心を削り続けた。
あの日の絶望と父への憎しみを抱えたまま、長い年月が過ぎた。
そしてようやく2025年の末に父はガンで亡くなった。

なおえもん
終始、害悪をまき散らす迷惑な人だった
36年後に見つかった「暴力事件の予兆」
2025年末の父の死後、遺品から500本を超えるカセットテープが見つかった。大半はラジオなどの録音であった。
しかし、その中から、この惨劇が起こるちょうど1年前である、1989年の家庭内の音声が入ったカセットテープが偶然見つかった。
私の小学生時代の録音はこれ1本しかなかったのに、私は何を思ってか、1年後の事件につながる予兆(父の暴力予告)を奇跡的に録音していたのである。
「どこどこの嫁さんは、ドアの開け閉めがうるさくて殴られとったわ」
そこには妹の絶叫を聞いた後の、父の冷酷な言葉が録音されていた。
父は激しい暴力事件から1年以上も前から「静かにしない、させない女は殴られて当然だ」という空気を母に刷り込み、暴力の正当化を行っていた事になる。
この「母がまぶたを割られた傷害事件」は、単なる突発的なDVではなかったのだ。
この録音が発掘された事によって、父の暴力が確信犯的なものあった事が36年の時を越えて証明された。

なおえもん
本当に奇跡的な録音タイミングと発見だった
その後に起った人生の転機
11歳の私は、あの惨状をただ震えて見ていることしかできなかった。しかし、あの惨劇から6年後。
再び「パシーーーーーーン!!!!」という音が家中に響き渡った瞬間、17歳になった私は父を殴り飛ばし、母を守る事になる。
この屈辱的な出来事は、6年後に私が自らの手で、あの暴力的な父との生活を強制的に終わらせ、両親の離婚を成立させるための、決定的なきっかけとなったのである。
11歳の私が偶然にも記録していた、我が家の狂気の正体。その音声の内容については、別の記事で詳しく公開しようと思う。

