
なおえもん
まいど、なおえもんやで
それから6年が経った1996年頃。
当時17歳だった私は、学校での理不尽ないじめが原因で家にいた。
外にも家にも居場所がない中、私の心の底には常に消えない警戒心があった。
外面は平穏を装っていても、父がいつまた母に暴力を振るうか分からない。
そんな最悪の事態を、私は常にどこかで身構えていた。
11歳の時はただ震えることしかできなかった。
だが、17歳の私は違った。
あの日守れなかった母を、ついに地獄から連れ出すことになった「あの日」の記録だ。
6年越しの反撃——母を守るため、父を殴り飛ばした、決別の記録
事件の引き金は、あまりにも身勝手なものだった。父は、私がなぜ家にいるのかを母に問い詰めた。
私は事前に母へ「家に居る理由を聞かれたら黙っておいて」と頼んでいた。
母は私との約束を守るため、言葉を濁した。
ただそれだけの理由で、毒親父の怒りは爆発した。
「言わんかい!!!!!!!」その大声が聞こえた瞬間
「パシーーーーーン!!!!!!!!」
母の顔を全力で叩く音が家中に響き渡った。
11歳のあの日、鉄製の椅子の角に吹き飛ばされ、まぶたを割られて血を流していた母の姿が、今の光景と一瞬で重なった。
「このやろおおおおおおおおお!!!!!!!!!」
私は部屋を飛び出し、母の前を駆け抜け、わずか数秒で父の顔面を全力で殴り飛ばしていた。
何も悪いことをしていない優しい母を、また父が激しく殴った。
もう、1ミリも許すつもりはなかった。
父は吹っ飛ばされ、台所のシンクの扉にもたれかかるようにして止まった。
「いててて」と顔を押さえた次の瞬間、父は立ち上がり、背後にあった包丁を手に取り、私に突きつけてきたのだ。
「こっのぉおおおおおお!!!!!!!」
父は大きく目を見開き、目が完全に逝っていた。
「あぁ…もう殺される…」そう思いながら恐怖で後ずさりした私と母は、転がるようにアパートの外へ出た。
次の瞬間、母が機転を利かせ「ぎゃあああああああああ!!!人殺しーーーーー!!!!!!」と絶叫すると、アパートの隣人が飛び出してきた。
他人の目を極端に気にする父は、それを見てようやく、家の中へ引っ込んでいった。

なおえもん
人間のクズである父が反省もせず…
「親に向かって!」毒親である父の末路
だが、父の狂気は終わらなかった。しばらくして、父は再び鬼のような形相で私の前に現れた。
「親に向かってこんな事しやがって!!!!!!!!!」
そう怒鳴り散らしながら、父は私の耳たぶを掴み、引きちぎらんばかりの力で部屋中を引きずり回した。
「うあああああ」耳の奥で「めりっ」という悍ましい音が響き、耳に激痛が走る。
その一方で「親に向かって」この言葉に、私は毒親である父への底知れぬ呆れと絶望を感じていた。
先に母を殴り、包丁まで持ち出したのはどっちだ。
自分への反撃は許さないという、どこまでも歪んだ自己愛性人格障害の自己中な認知。
いつ耳を引きちぎられるかもわからない痛みに耐えながら、私は確信していた。
この男は、もう親でも人間でもない。
一分一秒でも早く、こいつを排除しなければならない、と。

なおえもん
暴力DVモンスターである父との決別へ
私が主導した両親の離婚交渉と、虚勢の啖呵
事件直後、私は母に代わって自ら、父の妹である叔母を呼び寄せた。もう母の判断を待っている余裕はなかった。そもそも、母は気が弱くて何も言い出せない。ちょっと押されたら引いてしまい、丸め込まれてしまうような人である。
だから私が主体となって、離婚を成立させるための場を無理やり作ったのだ。
私は叔母に対し、6年前の凄惨な「母がまぶたを割られた傷害事件」も含めた父の暴力を暴露し、離婚を突きつけた。
叔母は当初、父を庇うように「これからどうやって生活していくの?」と私を思いとどまらせようとした。
母の実家は貧しく、すでに離婚した姉の子供で溢れかえっていた。
母には逃げ場がないことを分かって言っているのだ。
そんな叔母に対し、私は退かなかった。
「俺が面倒を見る。何度も母は暴行をされてるし、そのうち殺される。もう無理。だからもう親を離婚させて。別れさせて!」
これが精一杯の「虚勢の啖呵」であることは、自分が一番よく分かっていた。
だが、そう言わなければ母を救い出せない。
17歳の私の凄まじい気迫に、叔母は圧倒され、了承するしかなかった。
過保護の末路。DVモンスターの父を作った婆さんの懇願
数日後、当時、アパートの別室に住んでいた婆さん(父の母)が、私たちの部屋のドアを叩きにやってきた。コン!コン!コン!コン!
コン!コン!コン!コン!
「和子さん!お願いやから離婚せんといたって、頼みます」
ドア越しに響く、身勝手な声。
私たちは居留守を使い、息を潜めていた。
あんな息子を甘やかしてモンスターに育て上げたのは、他でもない婆さんじゃないか。
その声は、自分たちが甘やかして育て上げた暴力モンスターである父の尻拭いを、最後まで母に押し付けようとする身勝手な叫びだった。
30代半ばという当時としては売れ残りだった父を、婆さんたちが苦労してやっと見つけた結婚相手。
当初は若くて綺麗で反抗もしない母を見つけて安堵したのだろうが、この母という生贄を逃せば、息子(父)がまた一人になってしまう。
そんな自分たちの都合しか考えていない執着の音に、私は吐き気を感じた。
隣にいた母は、無表情のまま私と顔を見合わせていた。
「また来たな、ほっとこか」そこには、一族の呪縛を断ち切ろうとする、冷めきった連帯感だけがあった。
婆さんがなぜこれほど執着したのか。その裏にある、父を「怪物」に育て上げた過保護の実態については、また別の機会に詳しく記したいと思う
毒親であるクズ父との決別
そしてついに離婚が決まる場。父がヘラヘラと放った一言は、一生忘れられないほど軽薄だった。
「離婚の理由は、性格の不一致やな(笑)」
これが私たち家族が一家離散する直前の、父の最後の言葉だ。
自分の暴力を完全に無かったことにしようとする、究極の逃げ。
さらにクズ父は「養育費は出さんからな」とまで言い放った。
どこまでも卑怯で、器の小さい男。
その後、父を残し、私と母と妹の3人で別のボロアパートへ逃げるように引っ越した。

なおえもん
こんなクズ父だから、暴力事件を何回も起こすのは必然
自由の代償と、泥水をすする青年期
暴力から逃れ、自由を手に入れたはずの新生活。だが、代償はあまりにも重かった。
脱出直後、極限まで張り詰めていた糸がプツリと切れた。
私は本格的に自律神経を病み、泥水をすするように生きるしかない、長く苦しい青年期が始まった。
母は生活を支えるために警備員のアルバイトで働き詰めになり、私たちの家の中には、また別の「影」が忍び寄ろうとしていた…
「離婚させれば、すべてがうまくいく」
そう信じて戦った17歳の私の前に待ち受けていたのは、さらなる地獄の入り口だったのだ。
