
なおえもん
まいど、なおえもんやで
行き場をなくした私に残されたのは、母を奪い去るために妹が計画的に父を騙して買わせた家だけだった。
17歳の時に決死の覚悟で脱出したはずの父という地獄と、逃げ場のない家で再び向き合わざるを得なくなった屈辱。
本当の地獄はそこから始まった。
本記事では死の直前まで私を「都合の良い道具」としてこき使い、私の人生を破壊し続けた父との、最後の6年間の記録だ。
恩をすべて仇で返す。自己中な父の入院生活
2019年に父との同居を開始せざるを得なくなってから3年が過ぎた2022年。父は相変わらず毎日何軒ものカラオケ喫茶をハシゴして好き放題の老後生活を送っていた。
そんな父が遊び惚けた後にバイクで帰宅中、強引に右折してきた車とぶつかりそうになり、必要以上の急ブレーキをかけて転倒し、右腕と右足を骨折する自損事故を起こした。
以前から父の強引な搾取や脅迫的な言いつけに困り果てていた私は、父に電話番号を教えていなかった。
しかし父は私の郵便物から勝手に電話番号を盗み見し、執拗な電話やショートメールを送りつけてきていた。
そのため私は通知を切っていたのだが、そのせいで事故現場から私に連絡が取れず、父は救急車に乗ったまま自宅まで運ばれてきた。
そこからが地獄だった。大手術が必要だというので病院に同行させられ、同意書を書かされ保証人にもならされた。
私自身、自律神経を病み、長時間立っているのも辛いような状態であるにもかかわらず、私は父の入院準備に追われることになった。
「パジャマが必要です、タオルが必要です、介護用のストロー付きのコップが必要です…」
私は体調不良に耐えながら、安いパジャマを複数用意するため、しまむらなどの店を何軒も探し回り、父の日用品を揃えさせられた。
さらに父は入院生活の手続きから毎週の洗濯物の持ち帰りと洗濯、そして再び持って行く、果ては会計まですべてを私に丸投げし私は父の面倒を見るほかなかった。
その一方で入院が大嫌いで、お金も節約したい父は、あろうことか医者に対して「息子が面倒を見てくれるから早く退院させてくれ」と強引に医者を圧倒し大嘘を吐き続けた。
そして、身動きも取れないくせに退院を強行して私にすべてを押し付けようとしたのだ。
私は「退院されても面倒は見れない」とはっきり伝えていた。
にもかかわらず、自分勝手な父はついに退院を強行するに至った。
父はその後も私にリハビリの送迎を強要し続けた。
通院にはタクシーを使えと言っても「金がもったいない」と拒絶する。
かといって自力でバスに乗ることもできない。
挙句の果てには、父は病院で医者に「息子が送迎してくれないんです」と被害者面をして告げ口までしていた。
自分の不注意で起こした事故の尻拭いをさせながら、退院まで強行し、さらには私を悪者に仕立て上げるその父のやり口は、どこまでも卑怯な人間だった。

なおえもん
感謝や尊重は1ミリもなかった
2024年春、父に殺されかけた日
そして2024年の春、84歳の父は突如として脳内出血を起こし狂気が爆発した。最初は「料理の仕方がわからなくなった」「テレビの付け方がわからなくなった」と痴呆の様な症状を訴え始めていた。
その二日後、突如父は「金を盗んだな!!!!」と叫び、私の部屋のドアを壊さんばかりの勢いで叩いてきた。
ドアを開けた瞬間、目が完全に逝っている父が襲いかかってきた。
「通帳の金が全部無くなっとる!お前が盗んだんやろ!全部返さんと殺してやる!」
父は私の部屋に盗んだ大金が置いてあると思っていたようで、とんでもない力で、強引に私の部屋に押し入ろうとしてきた。
私は普段から自室への立ち入りを禁止していたため拒否したが、あるはずもない大金を取り返そうと父は必死で私に襲い掛かった。
「返さんかい!!!!!!!!」
そう叫ぶ父の顔は完全に理性を失い、狂気に歪んでいた。私は取っ組み合いの乱闘状態で父を抑えていた。が、不意に腕を噛みつかれ私の腕は出血し始めた。
それでも父は暴れることをやめない。
狭い二階の階段の踊り場での父との死闘が続く。
今思えば二人とも階段から転落して死んでもおかしくなかった。
普段から体を鍛えていた父に対して私は息が絶え絶えで抵抗するのが限界に達し、最後は諦めて父を部屋に通さざるを得なかった。
父は想像していた大金が私の部屋になかった為か「許されると思うなよ!!」と言い放ち、殺意むき出しで私の部屋を出ていった。
しかし数分後、父は「下駄箱に置いてあった町内会のお金(数万円)も無くなっとる!」などと発狂し、再び襲い掛かってきた。
私が玄関に確認に行くと、父が「なくなった!」と騒いでいる封筒が目の前に置いてある。
中に現金が入っていることを確認しても、怒り狂った父にはそれさえも理解ができない。
父は私に危害を加え、命を奪うことしか考えていなかった。
そこでも私は再び父に襲い掛かられ乱闘状態になり、体力的にこれ以上抑えきれないと感じた私は、隣の家のドアを叩き、助けを求めなければならなかった。
「もうこんな家に居るのは嫌だし無理だ。」「逃げないと父に殺される…」
本当は、その日のうちに家出をして毒親の父とは永遠に縁を切りたかった。
だが、当時の私には逃げ出すための資金も体力も残されていなかった。
私は命の危機を感じながらも、この怪物と同じ屋根の下に居続けるしかなかった。
以後、私は自衛のために部屋を内側からロックし、枕元に包丁を隠し持って怯えながら少しだけ眠るという異常な生活を強いられることになった。

なおえもん
どれだけのストレスと恐怖であったか
父の執拗な監視と、不必要な浪費にまみれた強欲
そんな戦場のような生活の中でも、父の「監視」と「支配欲」は止まらなかった。私には収入源が少しあったのだが、父は「お前には管理は無理だ」と強引に私の口座を人質に取り、通帳を管理していた。私が父から受け取っていた生活費とは、本来自分の金である貯金を小出しにされ、経済的に隷属させられているだけの屈辱的な代物だったのだ。**私は過去に境界性人格障害の女に脅迫され借金を背負わされた事があった。
自分で時効による法的手続きを行い、消費者金融の借金をチャラにさせた事があり父に迷惑をかけたことはない。
だが父はその事を挙げ「放っておいたらまた借金を抱える」という勝手な決めつけで、私の郵便物をすべて勝手に開封し始めた。
強く注意しても「うっかり間違えて開けただけだ」とわざとらしいシラを切るという悪質さだった。
結局、私は自費で鍵付きのポストを設置までして対処するしかなかった。
また、私の持病を「怠け者」として一切認めず断罪する一方で、父は自分の欲求にはどこまでも忠実だった。
私が「今日は体調が悪くて不安だから家に居てくれ」と頼んでも父は聞くはずもなく、無視してカラオケ喫茶へ毎日遊び惚ける。
家では不必要に何個も買い込んだ腕時計やサングラス、帽子、ジャケットなどが並んでいた。
扇風機が5台もあり、ジャパネットで買った下らない商品が溢れている。
自分の浪費は棚に上げ、人質の私の口座から、生活費さえ出し惜しむ。あろうことか「自分が養ってやっている」と被害者面をするのだ。
その底の浅い嘘と自分勝手さに、私は吐き気がしていた。
さらに卑劣なのが夏場のブレーカー事件だ。
普段から私は父と接触をしたくないため、自分の部屋で電磁調理器を使って調理を行っていた事もあり、通常より電気代が高くなる。
もちろんその分、通常の都市ガスよりも高いはずのプロパンガス代は安く済んでいた。
だが発達障害の父にはそんな事は理解も考慮もできず「電気代が高い、もったいない」という理由で、私の部屋のブレーカーを勝手に落とす、という仕打ちまで行うようになった。
金銭的にそこまで困っているわけではなかったにもかかわらず、父はわずかな電気代まで惜しみ、病身の私の生活基盤を壊すことだけに執着していた。

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テレビの電波を増幅するブースターのコンセントまで抜く始末
2025年8月、私に「死ね」と吐き捨て、死刑宣告を行った父
2025年8月、父との関係はついに修復不能な破滅を迎えた。父は私の口座を人質に取っていることを盾に、そこから私に渡しているだけの「生活費」を、一方的に削減すると言い出したのだ。
私はそれまでも必死で抵抗してきたし、そんな事をされては生活が立ち行かなくなることを諭した。
だが、自己愛性人格障害で容赦のない父は聞く耳を持つどころか「取れるだけ取ったらいいと思いやがって!いいかげんにせえ!」と、あろうことか被害者面をして逆上までしてきた。
自分が息子を極限まで追い詰めている事実など微塵も認識せず、どこまでも自分が正しいと思い込む救いようのない自己中さ。そして、激昂した父はいきなり私に殴りかかってきた。
経済的にも私を締め上げて殺そうとするその狂気に、私は絶望した。その時、父が私に言い放ったのが、あの言葉だ。
「お前なんか生まれてこなければ良かった。死ね」
死を目前にした父が、実の息子にかけた最後の言葉がこれだった。
この一件で、私は「すべてを捨ててでも、この地獄から逃げ出さなければ殺される」と本気で悟り、決死の覚悟で家を出る準備を始めようとしていた。
しかし、運命はそのわずか2ヶ月後、私に代わって「決着」をつけることになる。
自滅へのカウントダウン——不条理な地獄の終わり
ここで少し、時計の針を巻き戻す。あの「死ね」と言われた2025年8月から遡ること1年。先ほど話をした、2024年春の脳内出血事件から数か月が経過した夏の日のことだ。実は、父は私に下血を訴えてきていた。
だが私は再び父と暮らし始めて5年間にやられた仕打ちの数々を振り返り、気に留めようともしなかった。
もしここで私が病院へ連れて行けば、癌は早期に発見され、自宅でこの暴力モンスター&クレーマーである父の延命と介護の世話を一生背負わされ続けていたはずだ。
これまでの仕打ちに、腕を噛まれたあの日… 私は限界をとっくに超えていた。
そして時は進み、2025年10月25日。最後の運命の歯車が動き出していた。
その日の夕方、突如として「コンコンコンコン」といういつもの鬱陶しいノック音が私の部屋に響いた。
父が「自力で飯を買いに行けないから、買い物に連れて行け」としつこく迫ってきたのだ。
こちらの都合などお構いなしに急に強引に用事を押し付けられ、私はやむなく自分の予定を後回しにして、父を連れて行くための準備を始めた。
私が用意のために風呂に入ろうとした時、トイレから出てきた父の姿が目に入った。
父は膝に手をついて、まるで全速力で走ってきた後のような状態で、激しくハァハァと肩で息を切らしていた。
もはや立っているのも限界の状態だったのだろう。
だが、父は自分の異変さえ認めず、気温の低下による寒さを和らげるため、強情に2階へ上がり続けた。
私はそんな愚行を行う直前に、1日僅か数円の電気敷毛布を使えば1階でも暖かく過ごせると提案していたが「いや、あかんあかん」父がその知恵を聞き入れることは無かった。
わずか数円の電気代を惜しむドケチ根性が、父の判断を狂わせていた。
私が風呂から上がり、いよいよ買い物に連れて行こうと2階にある父の部屋へ向かうと、そこには横になっている父の姿があった。
「おい行くぞ」「はよせえや」と声をかけたが、父は起き上がろうとするも「あかんわ、起きられへんわ」と答えるのが精一杯のようだった。
しばらく待ったが、父は動こうとする様子もない。
「ほなら買ってきたるから何が欲しいか言えや」と私が歩み寄っても、父の対応はどこまでも難解で卑屈だった。
「最近食べられへんねん。買ってもちょっとしか食べられへんし、買ってこられても残してもうたら損やから(いらん)」
死の淵に立たされ、命を繋ぐための食糧が必要な時でさえ、父は「買ったものを残して数百円損をすること」の懸念しか頭になかった。
私が「だから何が欲しいんや?」と聞いても、父は「わからん、なんか挙げてみろ」と要領を得ない。
私が「そんなん言われてもわからんわ」と返すと、不毛な押し問答が続いた。
父が提案を受け入れない人間であることを分かっていたので、私はしびれを切らしてこう切り出した。
「もういらんのやな?」
父はしぶしぶ「あぁ」と答え、その後にこう漏らした。
「(わしを放置したら)弱っていくだけや」
8月の時点で「だるくて仕方がない」と言っていた父は、自分の身体が急速に衰えていることを自覚していた。
それなのに、最後まで「息子に任せれば高いものを無駄に買い込まれる」という被害妄想とドケチ根性を優先させ、自ら助かる道を塞いでしまったのだ。
これが、父が階段から転落するわずか36時間前の出来事だった。
そして翌々日の10月27日早朝、父は真っ暗な階段を電気も点けずに降りようとした事もあって転落という結末を辿った。
父は首の神経を切断し、一瞬にして全身麻痺となっていた。
1時間後に偶然にも階段から転落した父を発見した私は「何しとんねん救急車を呼ぶか?」と、問いかけるも、父は「い ら ん…」と今にも消え入りそうな声で拒絶していた。
身体が動かず、死の淵に立たされてなお、父は病院代がかかることを恐れ、損得勘定だけを優先させていたのだ。
だが、現実はそんな些細な心配を嘲笑うかのように、一刻を争う事態となっていた。
救急車へ搬入されたものの、頸椎損傷に重度の貧血が重なり、搬送中には幾度も心停止を繰り返していた。
そして搬送先の病院で判明したのは、転移した末期の胃癌。膨れ上がって、もう栄養チューブが通るスキマもないほどの胃がんが出口を塞いでいた。
ヘモグロビン値は「3」という、医学的にはいつ即死してもおかしくない、文字通りの『死に体』だったのだ。
もはや、生きて倒れていたこと自体が不思議なほどの極限状態だったのである。
去年訴えていた下血の原因はこれだったのかと私は納得した。
そして父の搬送直後、私が感じたのは
- 今度こそは父の最期か…
- やっとこの地獄が終わるのか…
- これで本当に助かるかもしれない…
たった7年近く一緒に暮らしただけでも、これだけの不条理を見せつけられた父。
暴力父との生涯にわたるサバイバルの終わりは、ケチが招いた、あまりにも無様な自滅だった。
運命が、私を救い出すためにようやく動き出した瞬間だった。
