
なおえもん
まいど、なおえもんやで
雑多な荷物の中から、奇跡のように1本の古いカセットテープが見つかった。
そこに吹き込まれていたのは、11歳の春に父の暴力によって母が飛ばされ、椅子の角でまぶたを叩き割られる、あの決定的な傷害事件のちょうど1年前——1989年に我が家に渦巻いていた狂気の全記録だった。
当時10歳になろうとしていた私が、ラジカセいじりの延長で偶然にも録音していた家庭内の音声である。
なぜ我が家は、あんな凄惨な流血劇へと突き進んでしまったのか。
時計の針を巻き戻すと、すべての発端は1985年、私が6歳になる直前の春に妹が生まれたあの日になるのかもしれない。
それは私が母を独占し、家族にまだ小さな温もりが残っていた「黄金時代」の静かな終わりを意味している。
妹の誕生から、テープが録音されたあの日、そしてその翌年の母のまぶたが割られるまでの約5年間。
水面下で確実に進んでいた「家庭崩壊の前夜」を、ここに記録しておく。
妹の誕生と、幼少期から現れていた異常性
妹が生まれた当初、私は妹を心からかわいがり、大切にしようとしていた。非常に繊細な神経を持っていた私は、まだ言葉も喋れない赤ん坊だった妹が何を求めているのか、不思議と正確にその声を理解することができたのだ。
妹がぐずると、私は母に「美緒は今、こう言ってるんやで」と教えてやり、母は「あぁ、こうしてほしかったのか」と妹の要望に応えていた。
母と妹を助け、家族の架け橋になろうとしていた兄としての自分が、確かにそこにいた。
だが、その温もりは長くは続かなかった。
妹が1歳になる前には、早くもその性格の異様さが顔を出し始めていたのだ。
自分の思い通りにならないと爆発する異常な癇癪、関わる人間を疲弊させる底知れない自己中心性。
6歳の幼い私でさえ、本能的に「この子はどこかおかしい」と察知し、妹と距離を置かざるを得なくなっていった。

なおえもん
この時の嫌な予感は、今でもハッキリと覚えている
父の暴力で母のまぶたが割られる1年前…カセットテープに残された、妹と父の狂気
冒頭で触れた、あの奇跡のカセットテープ。内容から判明した日付は、妹が4歳になる誕生日の前日――1989年4月19日のことだった。
当時10歳の私が何気なく録音していたそのテープを再生した瞬間、スピーカーから流れ出してきたのは、37年の時を超えて蘇る、あまりにも生々しい家庭崩壊の現場だった。
当時、私と母と妹は親類が経営するアパートの2階に住んでおり、父は夜勤明けで日中は階下で眠りについていた。
その為「ドンドン歩くな」と普段から注意されていたにもかかわらず、録音の冒頭、4歳の妹はわざとかかとを強く打ちつけ、嫌がらせのように全力で「ドンドン」とものすごい足音を響かせながらラジカセの前を歩き回っている様子が記録されていた。
さらにテープには、牛乳を少しこぼしただけで「お母ちゃん牛乳こぼれた!!!!早く来て!!!ぎゃああああああああ!!!!」

異常に泣き叫ぶヒステリックな妹
妹はいわゆるヒステリックであり、一度スイッチが入ると、周囲の言葉など一切届かない狂乱状態に陥るのだ。
それに怒鳴る気力さえ奪われ、心底うんざりした深い溜息とともに、呆れ果てた声で返す母。
- 「この子は……ホントにうっるさいなー……」
- 「いちいち牛乳こぼしたくらいで、ギャーギャー騒がなくていいから!」
- 「お店に行ってもあれ買う!これ買う!と騒いでギャーギャーわめくし…」
そしてさらに事件が起きる。母や私が飲んでいたコーヒーを欲しがった妹に、母が「苦くないよ」と飲ませた際、変な顔をした妹に向かって母が言った。
「なんや美緒、変な顔して」
その些細な一言に妹は激昂した。
次の瞬間、足を強く蹴り出しての襖を派手に破る音が部屋に響き渡る。
「あぁ!破ったなぁ!」と叫ぶ私。
父が「わざと破ったんか?」と問い詰めるが、母は「わざとじゃない」と妹をかばおうとする。
しかし妹自身が「お母ちゃんが美緒が変な顔してるって言ったから!」と、明確な報復として故意に破ったことを自白する。
その後、母は妹を部屋の隅っこに連れて行き、ラジカセが置かれている目の前で、母は妹に「ごめんねは?」と優しく小声で謝罪を促す。

妹が破った襖とラジカセ
妹をむやみにかばい続ける母に対して「きのうはどうやったんや?」と前日も妹が同じように襖を破っていた事を挙げて母を諭す私がいた。
すでにこの幼さで、妹は意図的に問題を引き起こす素地が完成していた。
そして妹の世話に追われる母に対して、私はボソッとこう言った。
「おかあちゃん、美緒は頭おかしいんやで」

妹の奇行に頭を抱える母
四六時中、妹に振り回され、手を取られていた母には、息子の言葉を立ち止まって考える余白さえ残されていなかったのだ。
母の身が危険に晒されるという狂気が1年後に迫っているにもかかわらず、私も母も、それを止める術など残されてはいなかった。
そして、このテープに遺されていた狂気は、それだけではなかった。
泣き叫ぶ妹を見た父が、母に向けて冷酷にこう言い放つ音声まで残されていたのだ。
「どこどこの嫁さんは、ドアの開け閉めがうるさくて殴られとったわ」
子供を静かにさせられない母親は、殴られて当然だ――。
父による母への暴行事件が起きる1年も前から、父は母に対する暴力を正当化するための「大義名分」をすでに刷り込み始めていた事になる。

なおえもん
父と妹という火薬庫が完成しつつあった
歪んだプライド——「うちは貧乏やから」で頭を全力で殴られた日
妹の異常性が家庭を侵食する一方で、父の暴力性もまた、静かに牙を研いでいた。それは小学4年生の頃、日曜日に家族全員で神戸へ出かけた際のことだ。
お昼ご飯をどこで食べるかという話になった時、私は普段から父や母が家庭内で「お金がない」と愚痴をこぼしていたことを思い出し、子供心に気を遣ってこう呟いた。
「うちは貧乏やからなぁ」
その瞬間だった。
突如として、父の全力のこぶしが私の頭部に振り下ろされたのだ。

神戸で父に殴られる私
普段自分が言っている言葉を子供が口にしただけで、歪んだプライドが傷つき、実の子供を容赦なく拳で殴りつける男。
痛みに震える私の横で、母は何もしてくれなかった。
父の狂気と暴力に怯えきり、ただ黙って沈黙するしかなかったのだ。
すでに我が家は、父の暴力支配の前に完全に凍りついていた。

なおえもん
父の異常性は様々な面で出ていた
臨界点、そして11歳の流血劇へ
家庭をかき乱す異常な妹。歪んだプライドと暴力で支配する父。
そして、何も言えない母。
家庭崩壊の役者は、私が10歳、妹が4歳である1989年の時点で完全に揃っていた。
表向きは普通の家族を装いながらも、我が家の土台は完全に腐り落ち、あとは何かのきっかけで大爆発を起こすだけの状態だったのだ。
そしてこのわずか1年後、1990年の春。
妹の癇癪にいら立った父が、母を殴り飛ばし、椅子の角でまぶたを叩き割るという、あの凄惨な「1回目の修羅場」へと我が家はなだれ込んでいくことになる。
