
なおえもん
まいど、なおえもんやで
父が遺した最後の言葉は、それだった。
幼少期の遠い記憶ではない。
父が死ぬわずか3か月前、私へ殴りかかりながら吐き捨てた言葉である。
2025年の暮れに父があの世に逝ってから、10か月近くが過ぎた。
何度も殺されかけ、死を願うほど憎かった毒親がこの世から消え去り、家の中からは、あの執拗に部屋を叩くノックの音も、理不尽な怒号も途絶えた。
これでようやく肩の荷が下り、すべてが終わってせいせいするはずだった。
だが、誰もいない静まり返った家の中に身を置いていると、胸に広がるのは単純な解放感などではない。
父が倒れていたあの階段の下を通り過ぎるたび、ふと足が止まる。
暗闇の中で父が倒れていたその場所に、今はもう誰もいない。
「あいつは、本当に消え失せたんだな」
という、実感が胸をかすめる。
あれほど憎んだ毒親父であっても、最後まで私の前にいた「最後の身内」だった。
その厄介な存在さえも消え去った今、この静まり返った家の中で、私は本当に世界にたった一人ぼっちで取り残されてしまったのだ。
父の存在は、私の人生において、あまりにも重く、厄介な影であり続けた。
この深々とした静けさの中で、私は今、父が遺していった傷跡を、静かに見つめ直している。

当時の住居、神戸市西区高雄台にて毒親父と私
幼い私は、何ひとつ疑うことを知らず、満面の笑みで父の頬に顔を寄せている。
6歳下の妹が生まれる前、つまり私が小学校に上がるまでのあの6年間は、父の暴力に怯える事もなく、妹に大事なものを奪われる事もなく、私の人生において唯一の「黄金時代」であった。
父もまた、父親という役を懸命に演じようとしていたのだろう。
そこには一見、普通に見える家族の風景が確かに存在していた。
【★ここに幼少期の記事のリンクを貼る】
だが、今の私には、この写真が、ただただ残酷に見える。
この時、父の手の中で無邪気に笑っていた幼い私は、まだ何も知らなかったのだ。
まさかこの父親の手によって母のまぶたを叩き割られ、17歳で包丁を突きつけられ、トラックで轢き殺されそうになり、自立を望めば「日本刀で叩き切る」と脅され、最期には「死ね」と罵倒される未来が待っているなどとは。
私の長い戦いは、この黄金時代の崩壊から始まった。
父が私と家族に刻んだ傷跡
父が酷い男であったことは、弁解の余地のない事実だ。美化することなどできるはずもない。
私の心には、父が長い歳月をかけて刻みつけていった傷跡が、今も残っている。
11歳の春、妹の癇癪と絶叫にいら立った父は、母に責任を押し付け、母を殴り飛ばし、飛ばされた母は鋭利な椅子の角でまぶたを叩き割られた。
裂けた皮膚の奥から覗く白い組織。
治療もしないで着の身、着のまま逃げ出した姫路の街。
時間つぶしにファミコンショップでソフトを見ていた私に「これほしいんか?」「いいから買い」と母に勧められるがままにファミコンソフトを買わせてしまったあの日の激しい後悔を記した記事はこちら
17歳の夏にも、父は母を全力で殴り飛ばした。
「パシーーーーン!!!!」というものすごい音を聞いた瞬間、私の中で何かが弾けた。
私は瞬時に部屋を飛び出し、ものの数秒で父の顔面を全力で殴り飛ばし、父は吹っ飛んだ。
逆上した父が包丁を突きつけてきたあの修羅場。
殺されてもおかしくなかった。
私は母を守るため、自分の人生を諦め、親戚を呼び出し、両親を離婚させた。
家を出て、離れて暮らしていた20年間さえも、私はあの男の呪縛から逃れることはできなかった。
完全に拒絶すれば自宅へ乗り込まれ、その狂気の矛先が母へ向かう恐れがあったため、私は母を守る「防波堤」として、やむを得ず最低限の連絡に応じていたのだ。
だが父はその我慢につけ込み、「話がある」とくだらない用件で呼び出す。
あるいは私名義の車を事故で壊して保険を使わせ、故障の警告を無視して立ち往生しては私を呼び出す。
バイクを溝にハメては救援を求め、まるで無料の便利屋のように私をこき使い続けた。
それだけではない。私の命を直接脅かす凶行さえも、日常の延長で平然と起きた。
ある日は、運搬作業の帰りにコンビニのトイレへ寄るため少しルートを外れただけで激昂し、車から降りた私をレンタルトラックで轢き殺そうと突進してきた。
また別の日には「話がある」と言うので車に乗せ、後部座席の父の話を聞いてやっていた最中、あまりに支離滅裂な話の矛盾を冷静に指摘した途端、ものすごい剣幕で激昂。
走行中にもかかわらず、運転席に座る私の背中を全力で蹴り上げてきたのだ。
一歩間違えれば大事故で二人とも死んでいた、剥き出しの殺意だった。

なおえもん
コンビニの寄り道でトラックで轢き殺そうとしてきた父。離れて暮らした20年間の戦慄の記録
そして、妹の裏切りによって逃げ場を失い、再びあの男と一つ屋根の下に閉じ込められた、最後の6年間。自律神経を病み立っているのも辛い私を都合の良い道具としてこき使い、2024年の春には脳内出血を起こして発狂し、私の部屋に押し入って腕に獣のように噛みついて流血させた。実の父親から命を守るため、自室を内側からロックし、枕元に包丁を隠し持って眠らざるを得なかった日々。最期には私を締め付け「死ね」と言い放ち、1日わずか5円の電気代を惜しんで真っ暗な階段から転落していった。

なおえもん
腕を噛まれ、包丁を握って自衛した。毒親の父とボロ家で過ごした最期の6年間の記録
「日本刀で叩き切る」——自立を阻み、私を飼い殺そうとした狂気
この男の異常さは、暴力や暴言だけにとどまらない。息子の自立を徹底的に拒み、何が何でも自分の手元に縛り付けておこうとした執着こそが、何より恐ろしかった。 父は私の口座を通帳ごと人質に取り、本来私の金である貯金を小出しにしては「養ってやっている」と傲慢に振る舞い、私を経済的に隷属させていた。 その金をさらに一方的に削減すると言い出したため、私は「自分で口座を管理し、自分の力で生きていく。あんたに頼らず完全に自立するから、自由にさせてくれ」と提案したことがあった。親としての負担を減らし、双方が平穏に生きるための、ごく真っ当な話だった。 だが、その言葉を聞いた瞬間、父が放った言葉は信じがたいものだった。 「日本刀を買ってきてでも叩き切る」 自分の支配から逃れようとする息子に対し、刃物を買ってきてでも殺すと脅迫する。そこにあったのは、「お前を絶対に自立させない」「死ぬまで自分の足元にひざまずかせておく」という、純度100%の支配欲だけだった。 病気で弱った息子の立場につけ込み、自由を奪い、刃物で脅して檻の中に閉じ込める。この男の根底にあったのは、最後までこのおぞましい支配だったのだ。病室での最期——「水をくれ」と「おいでや」
そんな暴君の幕引きは、あまりにも無様で、そして身勝手なものだった。階段から転落して全身麻痺となり、救急搬送された病院のベッドの上。胃がんの腫瘍が肥大化して栄養チューブさえ通らず、急速に痩せ細っていった父。
入院した直後、ベッドに横たわる父を見舞った際、父は何食わぬ顔で私にこう言ってきた。
「毎日来てや」
ふてぶてしい要求と、赤ん坊のような甘えが半々になったような口調。当然、息子なら来るだろうと思い込んでいる態度だった。
どの口がそれを言っているのか。わずか3か月前に私を殴りつけ、「死ね」と罵倒し、狂気の中で腕を噛みついて殺しかけた男が、自分が弱った途端、何事もなかったかのように当然の権利として看病を求めてくる。その果てしない図々しさと罪悪感の欠落に、私は静かに「毎日は無理やで」とだけ返した。父は特に反応することもなく、すぐに次の喋りたいことへと意識を飛ばしていた。反省するどころか、息子の拒絶の意味すら理解していなかったのだ。
その後、必要な手続き以外で私が病院へ行くことはほとんどなかった。入院中、父は看護師の看病が気に入らないと理不尽にキレ散らかしていたという。誤嚥性肺炎で死ぬから水は飲ませられないのに、全身麻痺の体で、凄い剣幕と気迫で「水をくれ」と圧をかけて要求し続けた。
そして父の死の前日。かろうじて私の呼びかけに首を動かせる状態だった危篤の父に私は「明日も来るわ」と告げた。
それに対して父は声も出せない痩せ細った顔で、必死に口パクでこう伝えてきたのだ。
「お…い…で…や…」
反省も謝罪もない。自分が散々虐げてきた息子に、最期まで無様にすがりつこうとする姿。
そこには威厳ある父親の姿など微塵もなく、ただ自分の欲望とエゴにまみれた「85歳のワガママな子供」が、息絶えていくだけの光景があった。
85歳の子供の退場
父がもし生き返って目の前に現れたなら、また同じように害悪を吐き散らすに決まっている。 かといって、激しく憎悪し続ける意味もない。 あいつは自己愛の塊であり、結局のところ、人の気持ちも世の道理も何も理解できないまま、ただこの世から退場していったのだ。言葉も通じず、反省もできない幼児に対して、これ以上怒り狂っても虚しいだけだ。 47年間にわたって私の人生に居座り、我が物顔で暴れ回り、最期には「死ね」と言い放って消えていった。 ただその冷え切った事実だけを抱えて、私はこれからも生きていく。そして、母の真実へ
あの男がいなくなった後、私の心に残ったのは、身内が誰もいなくなり、世界にたった一人取り残されたような得体の知れない恐怖だった。自分の人生を一度きちんと整理しよう。まだどこかに繋がれる親族がいるかもしれない。そう思い、私は先祖の戸籍を取り寄せ始めた。
そしてその時、もう一つ、どうしても確かめておかなければならないことがあった。2018年末に妹にマインドコントロールされ、携帯も解約させられ、連れ去られたきり、音信不通になっていた最愛の母のことだ。 もちろん、どこかで生きているとは思っていた。けれど、妹の元でどういう状況になっているかも分からない。もし将来、私や母に何かあった時、これ以上時間が経てば居場所を追うことさえ難しくなるかもしれない。 そんな思いから、私は母の戸籍も合わせて取り寄せたのだ。
そうして取得した戸籍を見た瞬間、私の目はある一行の文字に釘付けになった。
「令和3年(2021年)3月4日 死亡」
息が止まった。父より5年も前。今から5年以上も前の春に、母はこの世を去っていたのだ。
2021年3月といえば、世界中が新型コロナウイルスの猛威に怯え、第3波の医療逼迫の中で緊急事態宣言が出されていた頃だ。まだワクチンすら始まっていない時期。当時、離れて暮らす私も「母は大丈夫だろうか、持病もあるのに感染したら命に関わるんじゃないか」と、遠くからずっと心配していた。その不安は、最悪の形で現実になっていたのだ。
妹は、母の死を私に一言も知らせず、5年もの間、完全に隠蔽し続けていた。葬式に出ることも、死に目に会うことも、線香一本あげることさえ叶わなかった。
父を見送り、47年間に及ぶ戦いはようやく終わった。だが、家の中が静まり返ったのも束の間、私は父の死の混乱さえも吹き飛ぶような、冷酷な現実を突きつけられることになった。
私に害を与え続けた父の死と、幼い頃からの愛情と優しさを注いでくれ、私が17歳で命をかけて守り抜いた大切な母の死。その重みは、天と地ほども違う。
母や私の人生を狂わせ、家庭を破壊し、結果として母を早死にへと追いやった元凶は、間違いなくあの毒親である父親だった。

須磨浦公園で母と父と3歳の私
そしてその隣で、何食わぬ顔をして佇んでいるのが、この母のまぶたを叩き割り、人生を破壊し尽くした父である。
こんなにも優しく、人が良かった母が、なぜあんな怪物に傷つけられ、苦難の人生を背負わされ、最後には妹に連れ去られて、あんなにも急いで逝かなければならなかったのか。
現在、私は法務局へ死亡届の記載事項証明の開示請求を行っている。
過酷な運命の中で引き裂かれた、母の最期の真実を知るために。 (※母との記憶、妹による連れ去りと隠蔽された死の真相については、次の手記【母の真実編】にすべてを書き記す)

